★「MikuMotionCapture」関係小史:VTuber前史シリーズ①

 

*筆者の考えている、ここ数年の疑問のひとつとして「なぜ2016年12月にキズナアイが誕生したか」というものがある。これは非常に難しい問いだが、VTuberを考えるうえで興味が尽きない問題でもある。
筆者が注目したいのは、VTuberの前史において、VTuberが成立しても不思議ではないタイミングが幾度かあったことである。今回取り上げる「MikuMotionCapture」は、そうした例のひとつである。
VTuberの構成要素のひとつとして、モーションキャプチャーは本質的なものである(この点に関してはまた別の機会に述べる)。「MikuMotionCapture」とは、MMDMikuMikuDance)とKinectを組み合わせて、モーションキャプチャーを試みた動画に付けられたニコニコ動画のタグである。その技術的な側面に関しては、ニコニコ大百科などの記事を参照。
本稿は、このタグが付けられた動画を分析するものではなく、MMD杯やKinectの情報発表タイミングを整理した簡易年表を提示し、最後に現代からみた考察を加えるものである。詳しい解説というよりも、触れられることの少ないこのタグを紹介する意味合いが強い。

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---【2007】---

・2007/08/31:初音ミク発売。
*初音ミク発売からMMDが完成するまでの間、「VOCALOID3D化計画」「初音ミク3D化計画」といったタグでの動画投稿が相次いでなされる。

---【2008】---

・2008/02/22:クリプトンのガイドラインが改定。プログラム作品が解禁。

★2008/02/24:樋口優(樋口M)氏によってMMDが公開される。
http://nico.ms/sm2420025

・2008/07/26〜2008/08/17:第1回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm4242615

---【2009】---

・2009/01/30〜2009/02/24:第2回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm6150411

★2009/06/02:KinectがE3 2009のカンファレンスにおいて「Project Natal」の名前で発表された。
https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/212162.html
*公開されている動画(公式)
https://youtu.be/g_txF7iETX0

・2009/07/24〜2009/08/24:第3回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm7936201

・2009/09/25:東京ゲームショウ2009で
Project Natal」の技術デモが行われ、記事になる。
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/0909/25/news088.html

---【2010】---

・2010/01/22〜2010/02/23:第4回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm9692478

・2010/06/13:ロサンゼルスで開催された「The World Premiere Kinect for Xbox 360 Experience」にて正式名称が「Kinect」であることが発表。
https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/374370.html

・2010/07/30〜2010/09/06:第5回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm11820316

・2010/09/16-19:Kinect東京ゲームショウ2010に登場。一般向けに試遊台が公開。
https://www.4gamer.net/games/092/G009280/20100918033/

・2010/11/04:Kinect、北米で発売。

★2010/11/20:Kinect、日本で発売。
https://akiba.keizai.biz/headline/2201/

★2010/11/30:「MikuMotionCapture」タグ最古の動画。
http://nico.ms/sm12898511

★2010/12/19:MMDKinectに対応(Ver.7.24)し、モーションキャプチャ機能がつく。

・2010/12/21:MMDKinectの試みがITMediaに取り上げられる。
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/1012/21/news089.html
*参考動画:すでに、現在VRゲームで体感できる要素を先取りしている。
https://nico.ms/sm13083588

---【2011】---

・2011/01/21〜2011/02/27:第6回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm13571564

・2011/02:「MikuMotionCapture」タグは2011/02から動きが鈍くなり、2014/04/09が最後の動画。

・2011/07/29〜2011/09/03:第7回MMD
*優勝作品:https://nico.ms/sm15356096

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▼考察:なぜ「MikuMotionCapture(以下、MMCと略記)」はVTuberになり得なかったか?

①既存のキャラクターへの執着
上記の動向の副産物として、自分が初音ミクになれる喜び?を示す「俺がミクだ」という言葉が生まれた(詳しくはニコニコ大百科を参照)。この言葉からわかるように、MMC勢は≪既存のキャラクターになる≫という意識から自由になれなかった。
⇒現代からみると、VTuberにとって決定的だったのが「ねこます」の存在だろう。オリジナルキャラクターをつくり、それになりきる、という方向性。ただし、こうした「なりたい自分になる」的な理念にも歴史がある:みゅみゅ、のらきゃっと、YouTuber等。

②「人間らしい動き」が不必要
MMC勢は、動きそのものの完成度やモデル操作のしやすさ(MMDや動画としてのクオリティ)を優先し、「人間らしい動き」を追求しなかった(その必要がなかった)。(そうした動きがなかったわけではないが、メインではなかった。)
⇒「人間らしい動き/リアリティ」は、キャラクターが生きていることを強調したいVTuberならではの美学を満足させるものである。MMDに生々しさは必要不可欠ではないのであって、生きている感じや生々しさに拘泥するのがVTuberらしい。歴史としては、伊達杏子がこの路線に挙げられるだろう。

③技術畑の閉鎖性(営業・広報の不在)
「生主」「歌ってみた」「踊ってみた」界隈などとの深いつながりがなかった。そのため技術畑で話が完結し、外から発見されなかった。
⇒技術が使われないまま放置されてしまう問題は人類あるあるだが、ここでも発生していた。VTuber関係で言えば、初期のLive2D、初期のみゅみゅなどが挙げられる(両者とも結果的に発見された)。現在も、ライブ配信に特化した技術は見えやすくなったものの(特に3Dライブ)、VRC勢などが日々進めているであろう技術革新は、当事者以外は見えにくくなっているのが現状ではないか。

④マネジメントの不在
①~③を満たす、VTuberに通ずるアイデアがあったとしても、アイデアを実現しようとする(またはその能力がある)人物がいなかった。
VTuberに独特な理念や美学を想定したうえで、技術と人間を繋げるタイプの人間がいなかった(しかし、この時期にそれらができた人間はよほどの超人である)。また、資金調達をする力、市場で競争する胆力などをもった人物もいなかった。こうした要素を満たしたのが、キズナアイ(のチーム)であると考えられる。ポン子は広報止まりであり、外部との競争とは無縁だったのではないか。

★解離する2つの「パーソン」:ナンバユウキ氏論文へのコメント

★要約

ナンバ氏の3層理論における「パーソン」は「物理的パーソン」と「想像的パーソン」に分けることができる。アンチは、論理的にこの2つを同一とするのは難しいと主張し、ファンは想像や信頼によって、2つを同一視する傾向がある。

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・本稿はナンバユウキ氏の以下の文章についていくつかコメントを試みるものである。
バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン」
http://ecrito.fever.jp/20200901220007
(以下、引用時には「エクリヲ」と略記する。)

・はじめに少しだけ、本稿のスタンスについて言い訳しておく。筆者の立場でナンバ氏の文章を見ると、「あれがない、これがない」という指摘をしたくてムズムズしてしまう(し、本稿は「重箱の隅をつつく」ような指摘ばかりである)。しかしナンバ氏は、文章の要点をズらさないために(また、一般的な理論を構築するために)、意図的に具体例や複雑な例外を排除しているものと考えられる。本稿は、そうした意図的に排除した例外をわざわざ掘り起こしてしまう型の文章である、と一応書いておく。
こうした掘り起こしは、VTuberの「アンチ」と似た論法になるような気がしている(アンチの実際の文章を用意できていないので、筆者の経験則だが)。VTuberに対して反感を持つ人々がいるとして、どうしてそのような反感を持つに至ったか、という論理を考える文章に(結果的に)なっている。実際、今回検討する文章の第3章と呼ぶべき部分(「システムとデザイン」)は、反感・不和・対立といったマイナス面は注意深く排除されている。したがって本稿が、VE理論の裏側事情について理解が進む文章になるよう努力したい。

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【1】視聴者は「パーソンそのもの」ではなく「メディアペルソナ」を鑑賞する

今回の論文に入る前に、ナンバ氏の過去の論文「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ(以下、2018と略記)」について検討しておきたい。なぜなら、今回の論文における3層理論の説明は簡潔におさめてあり、詳細な論点は「2018」に書かれているからである。
http://lichtung.hateblo.jp
上記ブログ:2018/05/19の記事を参照。)
さて、「2018」には次のような一節がある。

「ここにいたって、しかし、わたしたちはパーソンそのものを鑑賞しているとは言えないことに気づくだろう。どういうことか。
というのも、わたしたちがアクセスしうるのは、メディアを介した(mediated)パーソンであって、パーソンそのものではないからだ。このようなメディアを介したパーソンの現れは、コミュニケーション研究において「メディアペルソナ(media persona(e))」と呼ばれる。」(2018、1-1)

このようにナンバ氏は、視聴者がアクセスできるのは、「パーソンそのもの」ではなく、「メディアを介したパーソン」=「メディアペルソナ」であることを確認している。

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【2】メディアを通じて現れるパーソンは「選択的」である

以上のことを、具体例に当てはめて考えてみよう。
774Inc「シュガーリリック」に所属するVTuber獅子王クリスは、いわゆる「設定」としては「小悪魔探偵」というべき内容が、YouTubeチャンネルの概要欄に記載されている。しかし彼女がときに飲酒しながら語る内容は、素朴に耳を傾ければ「悪魔」や「探偵」のそれではなく、「会社勤めの成人女性」のそれであることは容易に想像できる。たとえば、以下の配信を参照。

・2020/07/07:【雑談】めっちゃかいしゃいくたくない【獅子王クリス/シュガリリ】
https://youtu.be/yggtpmER1B4

この配信のタイトルは「めっちゃかいしゃいくたくない」であり、自分が会社勤めであることを隠していない。また、この配信ではお金にまつわる「パーソン」的な話が登場してくる。
このように、獅子王クリスは日常的にリアルな仕事の話をするが、それは「語らなくてもよかったこと」である。それをわざわざ配信にのせている(選択的)。
以上のことと類似した論点は、ナンバ氏によって以下のようにも確認されている。

「こうしたメディアペルソナがオーディエンスによってアクセス可能なものとなるのは、パーソンの性質の一部分がTwitterや動画といったメディアを通して選別されることによってである。その選別にはパーソン、そして周囲の製作者が関わっているだろう。」(2018、1-1「VTuberの分析」節)

しかし、このエピソードは「嘘」や「演技(台本に書かれた台詞/あらかじめ準備された言葉)」ではないだろうか。つまり、彼女の話は、大なり小なり脚色されたものであると考えることも可能である。
ナンバ氏の文章においては、パーソンの性質が選択的であることのみが指摘されており、「嘘」や「脚色」の可能性については特に言及されていない。そこで、本稿ではこのパーソンの性質に注目することで、VTuberに対する「疑念」について考えてみたい。
(*ちなみに、筆者はクリスを信頼しているため、上記のエピソードに嘘は含まれないと思う。根拠としては、彼女が真面目であるという印象、嘘をつくのが苦手そうだという印象や、オフコラボでのふるまいなどが挙げられる。)

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【3】「パーソン」概念の整理:「物理的パーソン」と「想像的パーソン」

以下、「パーソン」概念について整理をする。筆者は以下のように整理できるのではと考えている。

①「物理的パーソン」
*「生身のパーソン」「パーソンそのもの」と同様。通常、プライバシーによって守られ、メディアに登場することはない。そのため、メディアに現れた「パーソナルな要素(物理的パーソンのもののように思える要素)」はメディアペルソナ(の一部)である。「物理的パーソン」を検証するには、実際にその場に立ち合うか、第三者が証言するしかない。また、厳しい独我論のように、パーソンの内面を想像することすらできない(物理的パーソンは検証できない)、と考えることも可能ではある(筆者はこの考えは極端であると考え、本稿では取り上げるが採用しない)。

②「想像的パーソン」
*「メディアペルソナ」からわかる情報をもとに、視聴者が想像するパーソン。筆者が推察するに、3層理論における「パーソン」は「想像的パーソン」と「物理的パーソン」が混在している(が、これは通常の見方であり、特異な見方ではないと筆者は考える)。
実際の人物である「物理的パーソン」と、観客の想像の産物である「想像的パーソン」は、物理的パーソンがプライバシーで守られている限り、その同一性を確証することができない。つまり論理的には、物理的パーソンと想像的パーソンは一致しているか不明である。しかし、実際の印象としては、両者を一致させる見方が多いのではなかろうか。この両者の一致が、3層理論やVE理論、パーソンとしての鑑賞の前提条件ではないかと筆者は考える。
(*前節で筆者は「獅子王クリスを信頼している」と書いた。このことは、想像的パーソンと物理的パーソンの同一性を想像した結果である。)

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【4】物理的パーソン①:VTuber同士でのプライバシーの保護

さて、物理的パーソンがプライバシーによって守られていることについて、具体例に沿いながら考えてみよう。
まず、VTuberは、VTuber同士でプライバシーを守りあっている。たとえば、VTuber同士はオフコラボをしても、ごく当然ながら、オフの内容をすべて話したりはしない。普通は、当事者同士でコンセンサスが取れている内容だけを話す。プライベートな話題に関しては、たとえば「真面目な話もいくつかしたよね」といった形でやり過ごす。こうした約束ごとをお互いに守ることで、お互いのプライバシーを守る。
(*こうした配信に乗っていない部分(動画にされていない部分)は、「裏」と呼ばれる。また、これは配信者やYouTuberにも当てはまるものであり、VTuberだけのものではない。)
たとえば、先日、ホロライブの桐生ココと天音かなたの同棲がスタートした。彼女たちは、同棲するに当たって、お互いのプライバシーを守ることを重要なルールと考え、配信上でルールを決めていた。ルールを決めた配信は以下を参照。

・2020/06/03:【#かなココ】そうだ、一緒に住もう。【桐生ココ&天音かなた/ホロライブ4期生】
https://youtu.be/-Vv29EA8YPY

たとえば、最初に文面化されたルールは「①勝手に部屋に入らない」である。家の中でもdiscordで確認をとった上で会うことがルールとして受け入れられている。
このように、たとえ同棲を決めたライバー同士でさえ、プライバシーをお互いに守る意識があることがわかる。

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【5】物理的パーソン②:視聴者による詮索の禁止

当然のことながら、VTuberの本名や住所は秘密にされるべきものである。どれほど先鋭的な活動をするVTuberでも、本名や住所を自らさらしたりはせず、致命的な情報は守っている(たとえば、私用のメールアドレスとパスワードなど)。
そもそも、他人の個人情報を詮索する行為は、日本の場合法律で禁止されている。ストーカーなども同様である。当然、VTuberのリスナーも同じく、このルールを守らなければならない。
(*逆に、住所や本名など、プライバシーをさらけ出しても、メディアペルソナでいることはできる。VTuberではないが、「ゆゆうた」がその筆頭例である。しかし、かなり特殊なパターンとして考えるべきであろう。)
この点がかなり暴力的な仕方で現れたのが、ホロライブの夜空メルに関する事案であろう。夜空メルのファンであったマネージャーが、その立場を利用して、夜空メルのプライバシーに踏み込もうとした。公式発表は以下の通り。

https://cover-corp.com/2020/05/25/%e5%bc%8a%e7%a4%be%e6%89%80%e5%b1%9e%e3%82%bf%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%83%88%e3%80%8c%e5%a4%9c%e7%a9%ba%e3%83%a1%e3%83%ab%e3%80%8d%e3%81%ae%e7%99%ba%e8%a1%a8%e3%81%a8%e5%bc%8a%e7%a4%be%e3%81%ae%e4%bb%8a/

当然、物理的パーソンに直接接触しようとする行為は、物理的パーソンに大きな負担を強いる。そのため現実的に考えて、視聴者は自身の想像的パーソンの確証を得るために、物理的パーソンに接触してはならない。
(**いわゆる「アンチ」のロジックで言えば、パーソンに対して最もダメージを与えられる行為は物理的パーソンへの接触である。これはときに殺人事件など、最悪な事態へ発展することもある。)

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【6】物理的パーソン③:パーソンの実際の内面

厳しい独我論的な見方をすれば、そもそも物理的パーソンと実際に会ったとしても、そのパーソンの内面についてはよくわからない、と考えることは可能である。たしかに、パーソンの言動からパーソンの内面を類推するのは容易いことではない。ウィトゲンシュタイン的にこの考え方を煮詰めると、パーソンの内面は決して知り得ない(あるいは存在しない)という見方まで行き着く。
しかし、こうした極端な考え方を取ることができる人間は一定数いるだろうが、すべてではない(多くの人間は、上記の説得をされたとしても、他人の内面を読む慣習を止めようとはしないだろう)。
パーソンの実際の内面を読むことの難しさは、ここまで極端な考えをとらずとも、十分考え付くことである。たとえば、過去に重大な嘘をついてしまったVTuberの言葉は、素朴に信じることが難しい。このように、パーソンの言動と内面を一致させるには、ある程度の信頼や想像力が必要になる。

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【7】物理的パーソン④:パーソンの動き

ナンバ氏の論文には、パーソンの身体性・動きに関する記述が現れる。たとえば、3層理論についてまとめている次のような一節である。

「たとえば、『キズナアイ』というVTuberは、「キズナアイ」というキャラクタの画像、そしてその動きをつくりだしているひとであるパーソン、そして、そうしたキャラクタの画像と重ね合わせられたペルソナからなる。」(エクリヲ、1-3)

エクリヲ論文や「2018」も同様に、キャラクタの画像の動きを作り出しているのはパーソンであると述べられている。しかし、キャラクタの画像の動きを作り出す物理的パーソンが、声(や性格)の主である物理的パーソンと同一人物であるとは限らない。
たとえば、ポン子(ウェザーロイド Airi)は週に1回の「フル充電」の際、気象キャスター山岸愛梨が動作と声を担当していた。しかし「省エネモード」の際、声は機械音声であり(まれに山岸が担当)、動きはスタッフが担当していた(2020年9月現在は「省エネモード」はなく、「フル充電」のみになっている)。
また、キャラクタの画像はそのままに、中身を変える遊びはVTuber間でよく行われている。最近では、にじさんじの夜見れなの3Dお披露目放送にて、夜見れなのマジックにより、花畑チャイカと椎名唯華の中身が一時的に入れ替わる演出がなされている。下記の配信を参照。

・2020/08/28:【3Dお披露目配信】アイドルマジシャンです!#夜見3D【夜見れな/にじさんじ
https://youtu.be/XZKIxpJQDuA
*10:30~13:20ごろ

(*にじさんじの「ゆがみん」のように、ライバーが自由にキャラクタを使用できるために、中身が一定でない存在もいる(動画サイトで「ゆがみん」と検索すれば、様々なライバーの様々なゆがみんを見ることができる)。また過去に話題になった「バーチャル蠱毒」の事例は、キャラクタの画像を一定にすることによってパーソンを強調し、競争させる例として興味深い。)
このように、キャラクタの動きを作り出す物理的パーソンと、その動きをもとに観客が作り出す想像的パーソンは、ときに一致しない。特に上記のポン子の場合は、物理的パーソンと想像的パーソンの一致を想像しなければならない。花畑/椎名の事例は、2つのパーソンの不一致という不自然な状態を意図的に出現させ、夜見のマジックにより解決させるという、一種の演劇(コント)の装置として機能している。これらの例では、2つのパーソンの不一致という疑念と、それを乗り越える想像力や信頼が前提とされている。
しかしこのことは、VTuber一般に常に当てはまる訳ではない(例外的な事例である)。素朴な見方のうえでは、あくまで「中身が替わりうるという可能性」という認識にとどまるだろう。また、状況証拠的に、中身が替わり得ないという確証も得られる。たとえば、ライバーが家に一人でいると明言しているときなど。ただしもちろん、その言葉は信用しなければならない。

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【8】メディアに現れる「パーソナルな要素」

さて、ここまで物理的パーソンに関する記述を行ってきた。では、視聴者はどのようにして想像的パーソンを作り上げるのだろうか。視聴者の想像は、メディアペルソナの一部である、メディアに現れた「パーソナルな要素」をもとに行われる。
(*メディアに乗るすべての要素が、想像的パーソンに回収されるわけではない。幾つかはキャラクターに回収される。)
以下に挙げる要素は「想像的パーソン」を構築するうえで、重要視される(と筆者が経験的に考える)要素である。

【作為的なもの】
①設定から逸脱した、個人的な情報
(ex.獅子王クリスの仕事・経済的な話。)
②感情的・衝動的行為
(ex.笹木咲・潤羽るしあがゲーム配信で怒り狂い、台パンをする。)
③実写映像に写る影・手・本人の顔など
(ex.*「手」が写る例:手袋付き⇒因幡はねる)
*「本人の顔」が写る例:ふぇありす/ゆうくん、犬山たまき/佃煮のりお、ポン子/山岸愛梨

【不作為的なもの】
①無意識的な動作、動きの癖、笑い方など
(ex.3D配信で、髪やHMDなどを触る動作。)
②あくびやくしゃみ、せきなどの不随意的行為
(ex.「VTuberくしゃみまとめ」は現在も更新が続いている。)
③空間を感じられる音
(ex.オフコラボなどでの部屋の反響、実写映像でのカメラ内蔵マイクの音質)

ここで、作為/不作為を分けているが、不作為のほうがより想像的パーソンへ回収されやすいものと思われる。作為に分類したものは、配信や動画にのせることを選択できるため、つくりものであると疑うことができてしまう。
しかし、この分類は厳密にするのがなかなか難しい。たとえば神楽めあは、ある配信のなかで、豪快で汚いくしゃみをしたあと、「今のなし」と言って可愛いくしゃみをやり直そうとしている(キャラクタの画像と想像的パーソンの解離をどこまでも広げてしまう、神楽めあの特徴がよく出ている)。VTuber側がやろうと思えば、上記の区分は無効にできてしまう面がある。
とはいえ、想像的パーソンが作り上げられる具体的なプロセスを追跡するうえで、上記の分類は無駄ではないだろう。また、上記の例は筆者が考え付いたものにとどまっているが、この他にも想像的パーソンを作り出すための材料は考えうる。

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【9】まとめ①:パーソンを鵜呑みにするファン/パーソンを疑うアンチ

以上述べてきたことを「ファン」と「アンチ」という面から単純化してみよう。素朴なVTuberのファンは、3層理論やVE理論の範疇に含まれ、VTuberを信頼し支援する。それに対して、VTuberのアンチはその信頼の成立する構造に対して「いちゃもん」を付け、攻撃する。たとえば、「お前の信じている想像的パーソンは、実際の物理的パーソンとは似て非なるものだぞ。お前はそんな嘘つきに金を捧げているのか?」云々。
次の例を考えてみよう。配信者が悩みをぶちまける「お気持ち配信」は、パーソンの切実な内面吐露であるだけでなく、立派なパフォーマンスである。なぜなら「お気持ち」は多くの場合、「言わなくても良かったこと」だからである。たとえば、あるVTuberが「経済的に苦しくて、活動が難しい」という言葉を口にしたとする。素朴に受けとれば、言葉通りの事実を信じるかもしれない(「かわいそうに。支援してあげなきゃ」等)。しかし穿った考え方をすれば、「こいつは金をせびってないか?」と疑うこともできる。
以上の例は、エクリヲ論文で下記のように想定されているものを誇張したものである。

「第三に、悩みと目標について。VTuberの心情吐露や悩みは、そのつどリアルタイムに伝達され、鑑賞者は、それにすばやく反応することで、ペルソナの向こう側にいるパーソンが抱いているであろう心的状態をリアルタイムに想像し、その時点の実感を伴った理解を行うことで、悩みの共感を行う。」(エクリヲ、3-2)

このように、想像的パーソンが想定されているが、パーソン的な要素が真実であるかは考慮されていない。

結局、「ファン」は配信者の言葉を素直に受けとる必要があり(想像的パーソンを鵜呑みにし)、「アンチ」は「言外の意味」に固執し「言葉狩り」へ至る(想像的パーソンを疑う/物理的パーソンに接近しようとする)。配信者の言葉をどう受け止めるかによって、ファンとアンチが別れてしまう。
むろん、こうした単純な2分法はファンとアンチの溝を不必要に深める可能性があり、注意が必要である。実際に視聴者に起こっていることはより複雑である。たとえば筆者のように、アンチの論理を仮に再構成できる人物でも、VTuberのファンでいることはできる(信じることはできる)。また、アンチは「反転アンチ」という言葉があるように、元々ファンであった人物が(勝手に)裏切られ、アンチになるということさえある。ファンもアンチも完全に単純化できないのである。
(*上記の問題があからさまに噴出したのは、アイドル部における騒動の例であろう。彼女たちはプライバシーに含まれる箇所について明言することができず、十分な問題の解明が成されないまま物別れになった。その結果、どのライバーを信じるか否かでファンが分裂してしまった感がある。)

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【10】まとめ②:疑念と信頼

以上述べてきたことをまとめると、次の仮説が考えられる:≪信頼関係によって成立する3層理論・VE理論の世界の裏側には、想像的パーソンに対する疑念がある。その疑念が払拭され、信頼に足るものになったときに、3層理論・VE理論はより強固なものになる≫。
先に述べたように、「メディアペルソナにおけるパーソンは本物ではないから、どんな手を使っても実物と会わなければならない」は、行為に移せば犯罪である。また、「配信ではこう言ってはいても、ハラの底では何を考えているかわからない」と考えていては、相手を支援することなどできない。こうした壁(疑念)を乗り越え、信頼関係を形成することで、3層理論・VE理論はより強いものになる。
逆に考えれば、VTuberを作る人物(チーム)は、パーソンという道具を使い、いかに信頼を形成するかを軸に戦略を練ることが可能になる。しかもそれは、わざとらしくあってはならない(自然である必要がある)。このとき、VTuberというコンテンツはリアリズムを重視する演劇(たとえば、自然主義の演劇)に接近する。

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【11】その他:書けなかったことの箇条書き

・ナンバ氏の理論は「声優」について当てはめてみる必要があるだろう。

・ナンバ氏の理論では、VTuberがひとりで活動しているか、チームで活動しているかという区別がなされていない。また、そのチームがどれくらいの規模であるかと、表現の内容は大きく変わってくるだろう。チームが大きくなればなるほど、パーソナルな要素は後退するかもしれない。

・ナンバ氏の論文の理論的に弱い点は、パーソンに寄りかかりすぎている点である。たとえば、海外のVTuberファンは必ずしも深いコンテクストを理解しているわけではないが、VTuberを楽しんでいる。以下のTwitterアカウントはその例である。

*Out Of Contexts Virtual Youtubers
https://twitter.com/OutofVTubers

ただし、最近はホロライブENが始動したことによって、英語圏の範囲であればコンテクストを自然に理解できるようになってきている。
(*パーソン情報は重要であり続けるかもしれない。たとえば、「にじさんじ台北」や「にじさんじ上海」が人気を得なかった理由として、言語的な壁があったのでは、と筆者は思う。それに対して「にじさんじID」では、Hana Macciaという稀有な人物(JP・EN・IDのトリリンガル)の存在が、活躍の大きな要因である考えている。)
こうした、さらにキャラクタとしての見方が縮小していきそうな状況では、キャラクタの意義を見出だす理論が必要とされるだろう。なぜならパーソンとしての見方だけで良いのなら、VTuberである必要などないのだから。
(**おめがシスターズや、ぽんぽこ/ピーナッツくんのように、キャラクタの特性を生かした表現は行われており、キャラクタとパーソンが渾然一体となった状態に注目した理論を、少なくとも筆者は求めているし、考えていきたい。)

★「VTuberという茶番劇の終わりに」:郡道美玲とRP

★要約
郡道美玲の「RPの否定」には、「存在の示し」を通じて「コンテンツの閉じ」へ向かう論理が伏流している。筆者は開かれたコンテンツへ変えていくべきだと考える。

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・RP=ロールプレイ
この記事では、RPという曖昧な語について精査はせず、「演劇」「演技」「設定を守ること」といった意味でアバウトに用いる。RPという考え方は、VTuberを語るうえで必ず参照されるが、必ずしも厳密な考察がなされているとは言いにくい。この記事では、RPの否定において、VTuberがどう変容するのか考えてみたい。

 

・元配信と発言内容
にじさんじVTuber(ライバー)である郡道美玲は、下記の配信で「私は教師じゃない」と自身のRP(設定)を否定した。

https://youtu.be/7L3rnmWSkKA
*2:14:25~

念のため補足しておこう。該当部分のすこし前をみるとわかるように、かなり直前まで「教師」らしい言葉を重ねてきただけに、この「私は教師ではない」という否定部分がかなり唐突で、筆者は面白いと思ってしまった。そして、この否定が終わった後は「教師」の話も含めた世間話に戻っていく。ただし、この配信で明確な「否定」がされているとはいえ、彼女が常時RPを否定しているとみるのは適切ではない(後述)。

 

・「RPの否定」の成立
さて当然ながら、RPの否定は、RPという前提がなければ成り立たない。彼女が今までRPをしてきたからこそ、「RPの否定」という表現があり得る。
たとえば、彼女がデビューしたときに流行した「待て、できるわよね?」ネタは、「教師」というキャラクターが前提とされなければ、意味がわからないだろう(その反面、意味がわからないから面白い、という面もあっただろう。「待て」は濫用されて意味を失い、ただのシュールなネタとなり、やがて消滅した)。彼女は確かに「教師」であった。また、彼女は他のVTuberを招いて授業を行っている。これは「教師」という前提がなければ、唐突なものになってしまう。このように、彼女は「教師」というキャラクターをRPしてきたのだった。こうした背景がなければ、そもそも「RPの否定」は成り立たない。
このように、郡道は元々RPに否定的であった訳ではないし、全面的に設定を守らない訳でもない。彼女には「教師」としての表現が、たしかに蓄積されている。

 

・「RPの変更」ではなく「RPの否定」
今回と似たケースとして安土桃を連想するかもしれない。下記配信の冒頭を参照。

https://twitcasting.tv/momo_azuchi_/movie/621803068

上記配信で、彼女は「女子中学生」ではなく「成人女性」であると明言している。
(*ちなみに、公式サイトには「女子中学生」とあり、非公式wikiにも「成人女性」とは明記されていない。ニコニコ大百科に関しては、成人女性の明記はないが、ツイキャスで使われていた別人格(成人)への言及がある。また非公式wikiには、彼女の公式設定の裏話が記載されている。)
このように、安土桃は「RPの内容を変更」したのであって、「RPを否定」したわけではない。
郡道のオリジナリティは、例えば「教師なんかダルすぎて辞めた」というRP路線の変更ではなくて、「私はそもそも女教師ではない」という否定を通じて、自らのアイデンティティ(のひとつ)を否定してみせたところにある。
(**RPの変更例としては、勇気ちひろ・森中花咲・出雲霞などが挙げられる。変更の内容や影響はライバーごとに異なっており、それぞれ掘り下げていく必要があるが、本稿では扱わない。)

 

・郡道と視聴者の関係:庇護欲、あるいは「演劇などない」という≪お約束≫?
「RPの否定」は、彼女が視聴者に対して嘘を付いていた、ということにもなりえる(つまり本来は、信用問題に発展しうる)。しかし、視聴者はそれで見限るのではなく、むしろその行為に「庇護欲」のようなものを掻き立てられる可能性すらある。上記配信のあとにも、彼女の活動は問題なく続いており、動画や背信の視聴回数もガタ落ちはしていない。
ごく単純に考えて、RPによって蓄積された絆が深ければ深いほど、その否定は観客に対して大きな影響を及ぼすはずである。しかし観客は、もはや彼女がRPをしていることなどどうでもいい、という意見すら抱いている可能性がある。つまり彼女の構成要素に「演技」など含まれていない、ということだろう。
すなわち、演劇の言葉で言い直せば、彼女は「女教師」という不在のキャラクターを再現するのではなく、ただ単純に、≪彼女がいる≫ことを示すのである。このとき、≪ここに演劇などない≫という約束ごとだけがあり、古典的な意味での演劇は成り立たないように思える。

 

・「演劇」を越えた「示し」
では、彼女は一体誰なのだろうか?
彼女は、彼女自身を純粋に「示そう」としている。そして郡道のリスナーは「示される」ことによって、より≪演劇などない≫という約束ごとを強化していく。この「示し」があることによって、上記の問いは意味をなさなくなる。たとえば、「彼女は彼女であって、他の何者でもない!」という答え。
(*≪演劇などない≫という言葉/信念は、「種も仕掛けもございません」というマジシャンのパフォーマンスに酷似している。また、顔出し配信者の一部は、この≪演劇などない≫という観念を中心に配信を組み立てているように思える。)
より具体的に言えば、いわゆる「全肯定」とはこの状態を指す。役者のパフォーマンスに外部的な評価軸を持ち込まず、すべての示される言動を肯定するあり方である。このとき、郡道美玲というコンテンツは外部に対して完全に閉じることになる。
(**ちなみに、郡道は「信頼できない語り手」なのである、という言い方もできる。彼女が卓越した叙述トリックを披露するかは不明だが、メタフィクションの技法のひとつとして片付けることも、いちおう可能ではある。)

 

・まとめ:部分的な「RPの否定」から「コンテンツの閉じ」の可能性へ
しかし、「RPの否定」は「外伝的要素」であるという解釈も不可能ではない。たとえば、『レバガチャ』出演時には、「教師」として紹介されている。また当然ながら、公式の紹介ページには「教師」と書かれている。このように、公的に彼女は「教師」キャラクターであって、この名義を変えさせるようなことはしていない。
もし、彼女のこぼした「RPの否定」を徹底させるのならば、こうした公的な記述もすべて書き直す必要がある。しかし彼女はそんなことはしていない。「RPの否定」は、部分的に述べられたに過ぎないのである。
(*筆者は彼女の配信をすべて追えている訳ではない。しかし彼女の環境を考えると、もしかしたら今回の発言はRPを続けることへの疲れが生じただけだったのかもしれない。つまり彼女の表向きの意図とは異なり、言葉だけがこぼれた可能性は考えうる。)
そのため、今まで述べてきた「RPの否定」⇒「存在の示し」⇒「コンテンツの閉じ」という流れは、常に表に現れるようなものではない。しかし、今回の彼女の発言により、郡道美玲というコンテンツに、上記の論理が伏流していると考えられる。

 

・最後に、安土桃から一言
「エイプリルフールが終わっちゃったけどわたしはこれからも紛い物の自分を演じ続けるよ。なぜなら私はVtuberだから…。ってやつ思いついたけどかなりいつも素でやってるので特にそんなこと無かった。」
https://twitter.com/momo_azuchi_/status/1245874113052160000

 

*補足:上記の論理を比喩で考える
たとえば、某大川氏は巨大な霊力を持っており、霊力を用いて故人を自分の身体へ憑依させることができるとしよう。
このとき、某大川氏を指して≪これは「演劇」である≫と言ってしまえば、このパフォーマンスは単なる茶番劇である(もしかしたら、良くできた演劇かもしれないが、素朴な科学を信じる現代人には、厳しい内容にならざるを得ない)。このパフォーマンスが「凄み」を帯びるには、まず「演劇を否定」しなければならない。
次に憑依のシーンに入り、故人が某大川氏の身体を借りて話し始めたとしよう。これは、超自然的な出来事であり、普通の論理では説明できない(=「示される」)。これに言葉でもって対抗する人は、示されていないと言えるだろう(「いや、台本読んでるだけでしょ」云々)。
さて、示されてしまったことは、既存の論理では説明できない(「語り得ないものについては、沈黙しなければならない」を守る場合)。このとき、外部の論理、たとえば「Aという仕掛けがあり、Bという結果が生じた」という論理は、通用しない(多くの場合、無視される)。こうして、某大川氏のコンテンツは成功し、より深く閉じていく。
筆者の個人的な意見としては、上記のあり方は長期的にみて得策ではないと考える。閉じたコンテンツ、閉じた組織がやがて崩壊してしまうことは、様々な歴史において語られてきたことでもある。外部に開かれたコンテンツづくりを、当事者が意識することによって、コンテンツが終わってしまうことを防げるのではないか、と考えている。

★「挑発する吸血鬼と閉じていく舞台」:赤月ゆにと「VTuber」

★要約(本文:約10000字)
*赤月ゆにの動画に対して、筆者は違和感を抱いた。その違和感とは、赤月ゆにが「VTuber」などの用語の曖昧さを軽視して、赤月ゆにとその「眷族」だけの≪決まりごと≫を言い渡したために生じたものだった。こうした挑発的な内容の表現は、短期的なプラスになり、ある程度評価できるが、長期的にはマイナスになりうるものである。筆者は、赤月ゆにがよりアクティブに外部と交わることを望む。

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・本記事は、赤月ゆにが先日投稿した動画について書いたものである。元動画は下記参照。筆者はこの動画の内容に「違和感」を抱き、その感じを言語化するために本稿を書き始めることにした。
https://youtu.be/QXKE21Ek0IE

・以下の記述には「赤月ゆに」が多数登場するが、差し当たり今回の記事では「赤月ゆに」=「赤月ゆにを構成するチーム」という言い換えを暗にしている。今回の動画は「赤月ゆにチーム全体の意見」として捉えた方が、ニュートラルに考えられると筆者は感じた。
(しかし、筆者個人の所感を述べるのなら、今回の動画の内容は偏りや混乱があり、演者・脚本・演出のコンセンサスが取れていたとはあまり思えない。この但し書きは、特に演者と脚本の意図がずれている場合を想定している。)
また、修正が非常に大変なため「VTuber」表記は揃えていない。

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【1-1】動画の内容
さて、今回の動画は非常に複雑である。動画の内容をいったんまとめ、ひとつひとつ考えてみる。
星井美希の生配信があり、評判を調べようとすると「VTuber」の文字が出る。そして「星井美希VTuberと呼ぶな」という意見が出てくる。
②赤月ゆにはVtuberを自称してないし、「リアル」である。なぜなら彼女は文京区に住み、ゴミだしをするし、挨拶をするし、文京区の女性教師の心配をするし、風呂の掃除をするからだ。
③「VTuber」は「生主」「歌い手」「ご当地アイドル」「地下アイドル」と同じニュアンスの言葉になっている。「Vtuberって呼ぶの、やめないか?」

【1-2】星井美希と「VTuber
①に関しては、別の記事で詳細を書こうと思い準備中である。差し当たり結論だけ書くと、≪星井美希はそのとき「VTuber」であったが、それは彼女の同一性になんら影響を与えない≫。
また、赤月ゆには星井美希SHOWROOMでの配信を行ったことから、彼女は「VTuber」ではないと述べているが、SHOWROOMでの配信と「VTuber」であることの用件とは全く関係がない(たとえば、筆者が清掃員として様々なビルへ出張しても、清掃員であり続けるように。あるビルに行ったら清掃員でなくなる、という例は不自然であろう)。

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【2】赤月ゆには「VTuber」ではない、か?

【2-1】VTuber存在論
赤月ゆには、「VTuber」を自称していない。また、自身が「VTuber」であるということも否定している。では、赤月ゆには「VTuber」ではないのだろうか?
筆者は、VTuber存在論(≒何をもって「VTuber」は存在するのか、という議論)に非常に興味がある(過去にも似たような記事を書いたこともある)。しかし、論理的に精緻な道具立てを持っていないため、ここで立証するのは難しい。
ここでは差し当たり、経験的かつ直感的に考えたものを記述していく。哲学の方法論に詳しい方や、様々な文化における類似例を知る方による、忌憚なきご意見を頂戴できれば幸いである。また、ここでの議論は後日、別記事にて詳しく書く予定である。

【2-2】VTuber存在論
さて筆者は、「VTuber」が存在するために、以下の5つの条件が必要であると考えている。

①2Dあるいは3Dソフトで描写されたキャラクターの使用
モーションキャプチャーの使用
③演劇的な主体の存在
④表現媒体を移動でき、キャラクターの同一性が崩れないという事実
⑤観客とのコンセンサスの成立

①については、特に言うことはないだろう。赤月ゆには、切れば血の出る生身の肉体ではなく、なんらかのソフトで生成されたキャラクターである。
また、②についても補足することは特にない。赤月ゆには、いわゆる「手付け」ではなく、現実の人間の動きを写し取ったモーションキャプチャーによって動く。
③は、赤月ゆにというキャラクター(役柄)と、キャラクターを演じる役者と、この演劇を成り立たせるための様々な物的要素を指している(監督、台本、編集者、など)。赤月ゆに(というコンテンツ)は、演劇的でないというほうが難しい例である(「役柄・RPの否定」など、限りなくグレーの場合がない)。(*この③に関しては、他のコンテンツにも当てはまるため、さらに細分化して考える必要があるだろう。別記事にて詳述する予定。)
④は、赤月ゆにがYouTubeにもTwitterにも登場するが、それらがキャラクターとしての同一性を持つことを指す。こうした同一性があるからこそ、キャラクターのブランドイメージを利用して、企業案件などを受けることができる。
⑤は、赤月ゆにを「VTuber」として認識することに、大多数の人々は自然に感じる、ということを指す。また、いったん「VTuber」として認識されているため、仮に赤月ゆにが「着ぐるみ」で登場したとしても、観客が「VTuber」としての認識を改めることはない、ということも含意している。
このように、赤月ゆにが「VTuber」であることは明白である。

【2-3】≪生主orYouTuber≫は本質的でない
上記の条件と比較して、赤月ゆには、コンテンツの内容や性質、つまり「生主的」か「YouTuber的」か、という分類方法を想定している。しかし、それらの要素/形式はVTuberに適用可能ではあれ、VTuberの存在にとって重要なことではない(両者は③に含まれると筆者は考える)。筆者は、①~②の形式的な要素、③の演劇的な要素、④~⑤の社会的な要素がそれぞれ満たされなければ、VTuberは存在できないのでは、と考えている。
ここからさらに論を拡げたいところだが、非常に長くなると思うので、後日別稿にまとめる。(*たとえば、演劇が成立するためにはコンセンサスが必要であるため、⑤は③に吸収される、等)
(*補足:赤月ゆにが用いた分類法は、比喩的に言えば、演劇形式の分類法である。ラシーヌの古典劇とベケットの現代劇は、大きくタイプが異なるが、同じ演劇である。)

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【3】赤月ゆには「リアル」である、か?

【3-1】「現実世界にいる」という「リアル」
赤月ゆにが連呼せざるを得なかった「リアル」とは、≪どの≫リアルだろうか?この動画で使われた「リアル」という言葉について、まずは整理してみよう。
まず考えられるものとして、「リアル」=≪赤月ゆには現実世界に存在する≫、という解釈があるだろう。
筆者はこの解釈はいちおう妥当だと考える。つまり、キャラクターとしての赤月ゆにを具現化したものが、現実世界に存在する、という解釈である。たとえば、赤月ゆにのねんどろいどが現実世界に存在することを根拠として、赤月ゆにが現実世界に存在する、と結論しても良いだろう。また、私がフィギュア製作を極め、精巧な赤月ゆに等身大フィギュアを作ったとする。このとき、赤月ゆには現実世界に存在すると言って良い。同様にして、二次創作で描かれた漫画の中の赤月ゆにも、VTuberというコンテンツとしての赤月ゆにも、現実世界に存在する。

【3-2】「現実世界に生きている」という「リアル」
しかし、先の「リアル」の解釈を≪現実世界に生きている≫まで広げると、上記の結論を修正することになる。まず、キャラクターとしての赤月ゆには、当然カテゴリー(普遍者。あるいは役柄)であるから生きてはいない。また、個物としての、ひとつひとつの赤月ゆにも、人工物であるから、生きてはいない。このように、「生きている」という状態にまで解釈の範囲を広げると、赤月ゆには「リアル」ではない、といえる。
それでも、ひとつひとつの赤月ゆにを「生きている」と言いたくなる。このとき言えるのは、カテゴリーや人工物を「生きている」と考えるには、≪赤月ゆには現実世界に生きている≫という「信念」が必要になる、ということだろう(赤月ゆに=幻想説)。(*このことは、いわゆる「擬人化」「アニミズム」などと似ており、比較できるだろう。たとえば、フィギュアがある日突然意思を持って喋り出す、などの想像力である。)
つまり、≪赤月ゆにが現実世界に生きている≫とは、観客の信念や幻想の度合いによって変わるものである。(**この幻想を作り出すために演劇的な装置(たとえば、役柄と俳優という関係性、理想的な3D空間……など)がある。)ここまで「リアル」を拡張して考えれば、≪赤月ゆには「リアル」である≫ということは自明でないことがわかる。

【3-3】「実在感」としての「リアル」
しかし「リアル」という言葉には、まだ掘り下げるべき要素が残っている。たとえば「リアル」とは、「真実らしさ」だろうか、「自然さ」だろうか、「実在感」だろうか。(***これらは、演劇理論における「リアリズム」において、各時代に議論になったキーワードである。)
「真実らしさ」だとすれば、そこには「事実」がなければならない。しかし残念ながら、文京区を探し回っても赤月ゆにを見付けることはできない。「赤月ゆにの中の人」を見付けることはできても、キャラクターとしての「赤月ゆに」は現実世界では見付からない。あるいは、痕跡としての「赤月ゆに」を見付けることができても、痕跡のオリジナルである「赤月ゆに」には到達できない。
「自然さ」だとすれば、そこに「想像力で補わなければならない隙間(不自然さ)」はあってはならない。しかし、赤月ゆにの使用している部屋は明らかに現実のそれとは異なっている。また、赤月ゆにというコンテンツには超自然的要素が多すぎる(吸血鬼、しゃべるコウモリ、等)。
では、差し当たり「リアル」とは「実在感」であると言えるだろう。赤月ゆにの様々な痕跡を辿るとき、観客は「赤月ゆに」にはたどり着けないが、その「生々しさ」を感じたりするだろう。バイノーラルマイクによって、より距離感覚が近くなった赤月ゆにの声に、「そこにありありといる感じ」を受けるかもしれない。
しかし、この「実在感」という観点は、人によっても環境によっても変わりやすい見方である。
すなわち、この「実在感」という観点で考えれば、≪赤月ゆには「リアル」である≫という主張は、≪人や環境によって変わる≫としか言えない。そして、この観点はコンテンツとしての評価軸として機能していると筆者は考える。

【3-4】「実在感」を表現できているか?
赤月ゆには他にも、自身が「リアル」であることの証明のため、自身の文京区での生活エピソードを話す。
では、この赤月ゆにのエピソードトークを、「実在感」という基準で考えてみるとどうだろうか。筆者は、あまり「実在感」の表現に成功していないと考える。なぜならば、赤月ゆには文京区と自身の関係性について、語っているのみで、示せてはいないからである。
たとえば筆者がいま、「昨日A市のコンビニBに行ったんだよね」と報告することもできる。しかし、それは端的に言って信用ならない。なぜならば、筆者がインターネットでA市の建物などについて調べて、上記の発言をした可能性があるからだ。この場合、仮に、筆者が自分の顔を撮影しながら、A市のコンビニBに行く動画を撮影したならば、信用に足る証言になりうるだろう。
この記述は、先日ぽんぽこが投稿した以下の動画を踏まえている。
https://youtu.be/alCRCiLHFOo
この動画は、仕組みを推測すると、撮影した旅動画に、音声に合わせて口パクしたアバターの動画を合成したものだろう。観客の想像力を喚起することで、「旅に行きました」という報告ではなく、≪VTuberの旅動画≫というコンテンツとして成立していると筆者は考える。
赤月ゆにで言うならば、文京区の文化施設に実際に赴き、紹介するなどの動画があれば、より「リアル」に感じられる(「実在感」がある)。このとき、赤月ゆにの声に応じた身振りが加えられると、さらに「実在感」が高まるだろう。
(*補足:≪現実世界に生きている≫ということと「実在感」の繋がりは明白である。後者の感じが強まることで、前者の確信に至るという言い方も可能だろう。)

【3-5】≪決まりごと≫としての「リアル」
さて、冒頭の問い(「赤月ゆには「リアル」である、か?」)には、「存在」という最低限のラインでは「リアル」と言えるものの、「生きている」とか「実在感」のレベルでは、明白に「リアル」と言えない、という両義的な答えを提案できる。
しかし動画内の赤月ゆには、ここまで検討してきた「リアル」を特に明らかにせず、「リアルなゆに/リアルなひまり/リアルな吸血鬼/リアルな文京区/リアルな眷族/ということで/やっていこう/よろしく」と動画を結んでいる。この言葉は、すべてが「リアル」であるという、特に論理的ではない≪決まりごと≫だけを、視聴者に押し付ける形となっている。つまり、≪赤月ゆには「リアル」である≫という、あまり明白でない結論を提示し、それを飲み込めない人物とは「やっていけない」ということだろう。
このように赤月ゆには、論理的ではない≪決まりごと≫を守れる視聴者を選別しているように思える。それよりむしろ、そうではない視聴者への挑発となっている(守れる視聴者にとっては、特に何の変哲もない動画だろう)。実際、筆者はこの挑発に乗った(違和感を抱いた)結果、冗長な文章をものすることとなってしまっている。また今回の動画は、赤月ゆにの動画のなかでも、再生数が多い方ではあり(ただし、特別多いわけでもない)、挑発としての機能をある程度果たしている。
ここまで解釈を広げてみると、今回の動画の目的は2つあったことになる。つまり、①「リアル」に関する≪決まりごと≫を提示する、そして、②≪決まりごと≫に従わない視聴者を挑発する。この2点の目的は概ね達成されているように思える。

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【4】「VTuber」という呼称について

【4-1】「VTuber」と言い換え表現
では、③について考えてみよう。
赤月ゆには、「野球もラクロスもサッカーも全部まとめて球転がしという分類」という言い方で、「Vtuber」という言葉の不自然さを示そうとしている。たしかに我々は日常生活において、この3競技のことを「球技」というカテゴリーで呼ぶのだが、ここでゆには敢えて「球転がし」という不自然な言い方を選んでいる。
一応指摘しておくと、「球転がし」と「球技」は同じカテゴリーを指しており、単純な言い換え表現に過ぎない。たとえば我々は金星のことを、時間や見え方によって「明けの明星」や「宵の明星」と言い分ける。このとき我々は読み方を変えることで、同じ対象の時間や見え方も合わせて表現している。
たとえば「Vtuber」にも、「絵畜生」という言い方があり、VTuberを嫌う層の用いる蔑称である。このように、呼称は使用者の認識が現れるものであるが、指されているもの(の本質)が変化することはない。
以上のことは、動画内で用いられたスイカの喩えについても同様である。

【4-2】「VTuber」という言葉のニュアンス
さて、赤月ゆには「VTuber」という呼称に、どのようなニュアンスを込めているだろうか。
赤月ゆには、クジラックス『歌い手のバラッド』作中にある「歌い手」の、かなり悪意のあるコメントを引用している。この引用は唐突であり、何を言わんとしているのか不明瞭だが、要するに「歌手」ではなく「歌い手」という言い換えによって、引用部で述べられたようなニュアンスが付与されるという主張と、とりあえずは解釈できる。
ここから赤月ゆには、フェアな目線に立っていないことがわかる。つまり、赤月ゆには「VTuber」というカテゴリーになんらかの悪しきイメージを持っており、恣意的な引用によって悪しきイメージを固定化しようと試みている。
この論法は「性急な一般化」の一種でもある。赤月ゆにがVTuberとして挙げる例は2例しかなく、その良し悪しについては述べられない(あえて言えば、「生主」系VTuberへのやんわりした敵意を読み取ることもできる)。VTuberは、それら2例で済むような単純なコンテンツではない。赤月ゆには自分にとって必要な例だけを、恣意的に選び、性急に「VTuber」というカテゴリーへ一般化してしまっている。
フェアな議論を求めるならば、赤月ゆににとって肯定的な具体例を挙げて欲しいところだ(もしかしたら、過去の配信や動画で述べているかも知れない。それならなぜ、今回の動画で言及しなかったのか、という疑問は残るが)。
たしかに「VTuber」界隈で、問題のある個人や団体が出現したり、不祥事が取り上げられることはある。しかし、航空事故における、全体における割合の少なさとインパクトの関係に似て、VTuber活動の全体に対する事件の比率は小さいものである。もちろんだからと言って、その小さな問題を放置したり隠蔽したりするのではなく、問題を公開し参加者同士で言葉を重ねなければならない。とはいえ、航空事故ばかりを取り上げ、航空のメリットを取り上げないことは、全く片手落ちと言わざるを得ないのである。

【4-3】「VTuber」はむしろ比較的ニュートラルな呼称である
筆者個人の感想としては、現時点における「VTuber」という呼称は、他の呼称に比べてニュートラルであると思う。意味としては、それがフィクションであること、YouTubeで活動する場合が多いことなどを含んでいるし、歴史としても、キズナアイが最初に使い出した呼称の短縮形であることを示しており、ひどく偏っているというものでもない。
VTuber」に代わる新たな呼称として「ヴァーチャルキャラクター」、短く言って「VC」などと言うこともできるだろう。しかし、今から「VCが≪正しい≫呼称です!」と言ったところで、使用する人は少ないと思う(これは筆者の直感に過ぎない)。むしろよりニュートラルな呼称は、一種の専門用語として用いられ、一般に流通しない可能性が高いだろう。
また仮に、この新しい呼称を赤月ゆにへ提供したとしても、拒否されるだけだろう。なぜなら彼女は「リアルな吸血鬼」だから。

【4-4】赤月ゆにの目的とは何か?
さて、上記の内容を踏まえた上で、今回の動画の目的について考察していこう。
動画内で述べられているように、彼女が「Vtuber」という呼称を忌避するのは、「VTuberだから**せよ」のような、「VTuber」によって導かれてくる要素やイメージを忌避してのことだろう。要するに「VTuber」と名乗ることになんのメリットもない、と判断したのだと思われる。むしろ「VTuber」と名乗り、何かいわれのないイメージを押し付けられるくらいだったら、そんな呼称など採用しないということだ。
筆者の素朴な疑問としては、なぜ「VTuberだから**せよ」というようなメッセージを真に受けてしまっているのだろう、というものがある。先述した通り、VTuberは非常に多様であり、VTuberという一般項から演繹的に何かを導くのは難しい。そのメッセージは論理的に問題があり、真に受ける必要などないのだ。(**こうした疑念からも、赤月ゆにのVTuberに対する悪いイメージを推察できる。)
むしろ赤月ゆには、ひとつの演劇(茶番劇)として≪真に受ける演技≫をしているのだろう、と筆者は考えている。つまり、「VTuber」と呼ばれることにメリットがない、という主張は表向きのものに過ぎない。では赤月ゆには、論理的には成功していない、自分とVTuberを切り離す言動に、どうしてこだわっているのだろうか。
ここで、【3】で述べた≪決まりごと≫としての「リアル」に戻ろう。【3】ではその「挑発」としての側面に注目したし、この≪決まりごと≫は部外者を排除する論理としても機能していた。このことと、本章で述べてきた「VTuberと呼ぶな」という≪決まりごと≫は両立しうるし、機能としても「挑発」と「排除」どちらの意味にも解釈できよう。(**たとえば「私をVTuberと呼ぶやつは眷族じゃない」という言い方も可能ではある。しかし流石に、そのような露骨な表現はしていない。)
つまり赤月ゆには、この動画を通して、2つの(論理的ではない)≪決まりごと≫を提示し、その≪決まりごと≫へ違和感をおぼえる視聴者の「排除」と、それらの視聴者への「挑発」を目的としていると思われる。その結果、赤月ゆにと「眷族」の絆はより深まるであろう。(*この≪決まりごと≫を守るからこそ、赤月ゆにの「眷族」である、とすら言える状態になる。)

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【5】まとめ

【5-1】議論のまとめ
さて、今までの議論を軽く振り返ろう。
まず、赤月ゆにの動画に対して、筆者は違和感を抱いた。その違和感の原因は、次のようにまとめることができる。
①赤月ゆには、存在論的に「VTuber」であるのに【2】、「VTuber」であることを否定しているため【4】。
②「リアル」という言葉の曖昧さにこだわらず、≪決まりごと≫としての「リアル」を視聴者に提示し、「選別」と「挑発」を行っているため【3】。
③「VTuber」というカテゴリーに対する悪しきイメージを表明し、「VTuberと呼ぶな」という≪決まりごと≫を提示しているため【4】。
上記の要素をふまえ、今回の動画をかなり意地悪な仕方でまとめると、次のようになる。≪赤月ゆに以外のVTuberは「歌い手」みたいなものだし、そんな「VTuber」と赤月ゆには関係がない。そんな外のどうでも良いことより、赤月ゆにと眷族の≪決まりごと≫だけを大事にしていこうね≫。そして、こうした内容に対する筆者の違和感を一言でまとめると、≪「閉じる」ことへの違和感≫と言える。

【5-2】「VTuber」を延命するために
あまりにも意地悪に過ぎたので、筆者の立場を補足しておこう。筆者は、今回の動画の「挑発」は、演劇としてきちんと機能しており、面白く感じた。コンテンツが「人に何かを考えさせる」機能を持つことは、ブレヒトを引用するまでもなく、重要なことだ。現に筆者は、今回の動画に触発され、今回の記事をせっせと書いているのだから。気持ちが動かされなければ、このような長文など書かないわけで、それほどこの動画には魅力がある。
しかしその反面、この演劇は「選別」の機能もまた果たしている。≪決まりごと≫を守らない視聴者とは「やっていけない」ことを暗示しているからだ。このように選別を行えば、視聴者が限定されていくことは明白であろう。この状態を「閉じる」とか「コンテンツが閉じる」と表現してみたい。要するに、外部性(外部からの意見など)を遮断して、内部性のみでコンテンツをつくる、ということである。
「閉じる」こと自体は問題がない。むしろ人気のあるコンテンツには、この「閉じる」作用が上手くいっているものが多い。しかし、ここに他のコンテンツへの攻撃性が加わると、かなり話は厄介になる。たとえば、≪配信者Aの言ってることが絶対正しいのに、配信者Bは違うことを言っている。コメント欄を荒らして無理やり納得させよう!≫など。このとき、配信者同士の関係が良好であれば、こうしたことは起こりにくい。結局、コンテンツ同士が閉じてしまっているために、このようなことが発生する。
今回の赤月ゆにの動画では、「挑発」の一環として「VTuber」への攻撃がやんわりと試みられている。これは本文で述べた理由(性急な一般化などの論理的問題など)からして、全く容認できない。また、上記のような不要な争いを生む可能性さえ胚胎していると、筆者は感じる。
筆者は、重要なのはプロセスや関係性であると思う。たとえば、赤月ゆにと眷族の間にもそれぞれ物語(絆が形成される過程)があるように、他のVTuberとその視聴者との間にも物語がある。「生主」系VTuberなどに批判的であるのは勝手だが、そこに確かにあるはずのプロセスや関係性に対して、全くリスペクトがない表現は容認しがたいのである。
VTuber」という軛(くびき)や柵(しがらみ)から脱出したいという気持ちはわからないでもない(むしろ表現者としては、既存の枠組みから脱出しようとすることはまことに結構なことであろう)。しかし、ヴァーチャルなキャラクターを用いて演劇をする限り、「VTuber」であることからは逃れられない。ましてや、「VTuber」を非論理的な仕方で攻撃することで、上記の目的は達成できない。むしろ、ひとりひとりの「VTuber」をリスペクトし、「開けた」コンテンツに変えていくべきなのではないだろうか。
筆者は、こうした努力を重ねることで、放っておけば「閉じて」、終わって(衰退して)しまうであろう「VTuber」というジャンルを、なんとか「延命」できればと考えている。そしてそれができるのは、こんなところで駄文を弄している筆者などではなく、ひとりひとりの「VTuber」なのである。

 

*「ゴシップ」の思考メモ

*ゴシップに関する思考のメモ。具体例は示していないが、コレコレ・ポケカメン・PDRさん・滝沢ガレソ・鳴神裁、といった面々のコンテンツを思い浮かべながら、メモを作成した。見出し=要約は以下の通り。

 

①ゴシップは現実/虚構、公/私の狭間に現れる
②ゴシップは人間の価値観や感情を揺さぶる
③ゴシップは真理であり正義である場合もあるが、反転しうる
④ゴシップは証明も解決も難しい

 

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①ゴシップは現実/虚構、公/私の狭間に現れる
いわゆる「ゴシップ」は、完全なフィクションが共有されている状態では意味をなさない。たとえば、絵の中に描いてある人物に向かって罵詈雑言を放つ、など。この行動は「滑稽な」ものとして受け取られる可能性がある。つまり「ゴシップ」は、フィクションと現実の狭間、フィクションが破れているところ、失敗しているところ、フィクションを信じられない状態において、はじめて有効になる。
すなわち、どのゴシップも「本職」においては発生しにくい。グラビアアイドルもアナウンサーも芸人も、その職業における行動が問題視されることは少ない(もちろん、あり得る。グラビアアイドルの写真集が過激である場合など。しかし、フィクションの作者の方へ吸収される可能性が高い)。本職の「裏」で、いわゆる「私人」として行われた行為について、ゴシップは発生する。あるいは「私的領域」に隠そうとする「秘密」にも、ゴシップはつきものである。
ゴシップは、フィクションと現実の狭間、公的な領域と私的な領域の狭間で発生する。こうした境界がないとき、ゴシップはその存在意義を限りなく小さくする。
(*しかし、人間に「かくしごと」があるかぎり、ゴシップは消滅することはない。いわば人間が社会的に生きようとする限り、ゴシップやうわさ話から逃れることは難しい。それらから逃れるためには、引きこもりになり、可能な限りでの匿名性を確保するほかない。)
(**ゴシップは、ごく小さな出来事を宇宙的な規模まで引き伸ばす。もしくは、自分とは全く関係ないと思われていた出来事を、自分と関係のあるものとしてこちらへ強烈に引き寄せ、巻き込む。)

 

②ゴシップは人間の価値観や感情を揺さぶる
ゴシップは、様々な価値観に揺さぶりをかけるものである。もし、それが受け入れやすいものだったり、特に気に止めるものでもなければ、ゴシップとして成立しない。中でも「不倫」「未成年者との云々」といった、性に関する価値観は(芸能人などによっては)注目されやすい傾向があるのではないか。読者の価値観に揺さぶりをかけ、感情が高ぶらなければ、いかに珍しい情報でもゴシップとしての価値は低いだろう。

 

③ゴシップは真理であり正義である場合もあるが、反転しうる
ゴシップは、時に「真理」や「正義」とともに用いられる傾向がある。実際に、巧みに隠蔽された反-倫理的行為(多目的トイレで無理やり?行為におよぶ等)、企業不祥事などを明るみに出すには、ゴシップまがいの情報を「真実」に叩き上げる必要がある。声を上げられない当事者の声を汲み取ることは、「正義」の行為であるとして良いだろう。
しかし、「正義」の名を借りて「非-正義」(=「敵」)と見なされた対象を攻撃することも可能である。「敵」は提出された情報が明らかな嘘であっても、証拠を提出することを求められ、その労力は大きい。また、その労力に見合わず、「事実は人の心を変えられない」というように、結局「敵の言うことなど信用できない」と言われてしまえばそれまでである(「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」)。

 

④ゴシップは証明も解決も難しい
ゴシップが真実であることを客観的に証明することは難しい。そもそも、公共的な事件でないこともあるため、複数視点による相対化がしにくい。まさに「当事者が声を上げること」そのことによって、ゴシップの客観的な信頼性は低くなってしまう。
また、ゴシップの正しさを証明するはずの証拠の出どころは、情報元との信頼関係が優先され、明かされないことも多い。
このようにゴシップは、その外側に居る人々にとってはその正しさを証明できないことがほとんどであり、いわば「終わらない旅」である。ゴシップを楽しむ人々は、ゴシップの構造に内在している解決不可能性を楽しんでいる、といえる。
(*真の正義を達成するための用件として、「透明性」が考えられる。ゴシップはどれだけ「正義」の衣を着ようとも、その不透明性によって普遍的な正義に到達できない。ゴシップの主体は、情報網との信頼関係という「小さな正義」を優先し、より普遍的な「大きな正義」を蔑ろにしているという批判も可能だろう。)

★「現実と虚構の揺さぶり」:神楽めあ3D配信の感想

★要約
①今までの「神楽めあらしさ」が凝縮された、良い3Dお披露目配信だった。
②「現実と虚構の揺さぶり」や「自然体」な振る舞いなど、神楽めあの良さが発揮されていた。
③「神楽めあ」という「キャラクター(心理・人間性)」を観察するという観点からも、その「二重性(分身性)」がよく現れていた。
④「何もない空間」を用いることで、キャラクターや没入感という観点だけでない、想像力を要する観かたを提示していた。

 

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・筆者はこれまで、ここまで「ぬるっとした」3Dお披露目配信を見たことがない。fpsが高いという意味ではない。いわば「カッチリ」していない3D配信だった。以下2点。

 

①残り時間への言及
例えば、よい配信を見たときに「時間を忘れていた」とか「もうこんな時間なんだ」というような感想が、演者や観客から漏れることがある。神楽めあは、そうした「時間を忘れるような没入」に至ろうとするとすぐに、観客に時間を意識させる言葉を漏らしてしまう。観客は、「めあ、今日もかわいいぞ」という没入状態から、あと残り時間はどれくらいか、という現実に引き戻される。筆者が思うに、神楽めあファンはこうした「虚構と現実の揺さぶり」を楽しんでいるのかと思う。
(*ちなみに演劇理論の文脈で言えば、この感想に最も近いのはブレヒトの「異化効果」だろう。しかし、神楽めあに社会的改革の意識はごく薄いため、その点において当てはまらない。)

 

②テンションの低さと「自然体」
主ににじさんじとホロライブの慣例として「あるノルマを満たしたら3D」という条件があるために、3Dお披露目配信は、演者にとってもファンにとっても、共に作り上げてきたことの達成を喜ぶ特別な時間になる。そのため演者はテンションが高い(黛のような、特別な仕掛けがある場合もある)。
今回のめあは、そうした3Dお披露目配信を見慣れている身からすると、テンションが低かった。身体的な限界=めちゃめちゃ疲れている、などの事情はあったかもしれない。しかし、普段のめあの配信を基準にすれば、普段通りのテンションと言えるだろう。彼女はいたって「自然体」であった。これも神楽めあファンのキーワードのひとつだろう。彼女は、彼女が意図するにせよしないにせよ、基本的には「自然体」であるように〈見える〉。それは、前述した通り、フィクションの側面が大きく出てしまった瞬間に、彼女が自分でツッコミを入れてしまうためでもある。3Dに対しても大きな喜びは表明せず、「次の3D配信は来年」と突き放す。彼女は3D配信の特別さに言及はしても、それをことさら強調することはなく、いつも通りの「自然体」を保っていたように見受けられた。

 

・基本的な「演技力」の高さ
いまここに無いもの(不在のもの)を、いまここに喚び出す(再現する)ために、不在のものを物真似(模倣)する、というのが「演劇」構造の、非常に古典的な解釈のひとつである。
神楽めあは基本的に、この模倣/再現のセンスが良い。彼女は物真似がうまく、相手の特徴をとらえることを得意としている(観察眼の良さ)。そしてそれをかなり正確に表現できる(表現力)。しかしその「演技力」の高さとは裏腹に、絶えず模倣の元や型をはみ出して、笑いに変えてしまう。こうした笑いの具体例として、ハリウッド・ザ・コシショウの「誇張モノマネ」があるが、神楽めあもまた、物真似を過剰に引き伸ばしてグロテスクにしてしまうことがある。
以上のことは、声+Live2Dの配信でも観察できた点だが、今回の3D配信は当然ながら、身体の要素が強く出た。ジェスチャーゲームの身振りも上手く(意外なほど「わざとらしい」身体表現ができる)、またダンスの振り付けもおぼろ気ながら覚えているなど、声を使うにせよ身体を使うにせよ、神楽めあは「型にはまった表現」が得意であると思われる。しかし、完璧にこなす訳ではなく、「型」に反抗する意識を常に持ち合わせており、常に「はみ出しもの」である印象も同時に受けた。

 

・メタなのに「わざとらしく」ない
他意がない、狙ってない感じが出ている。これだけメタ的に面白いことをやってるのに、「わざとやっている」感じが全然しない。この感想は普通、良くできた(没入感のある)劇について言うものだ(例えば、「あの俳優は役になりきっていた」等)。そして、「劇的なものをぶち壊す劇」は、得てして「それっぽく」なってしまう傾向がある。例えば、アニメ『ぱにぽに』で書き割りがあらわになる演出や、ポプテピピックの様々な演出は、見る人にとっては「わざとらしく」感じる。しかし、神楽めあは「劇的なもの」を絶えずぶち壊しているのに、「わざとらしく」感じない。それは、彼女が台本など考えずに(あるいは無視して)、思いつきで行動することで劇的なものをぶち壊し、後から「ごめんなさい」などと小声で言うところに現れている。彼女には、全く考えなしに行動し、瞬間的に反省するパターンがよく見られる。彼女はおそらく、意図的に台本を無視しようとは考えておらず、単純に守ることができない(むろん意図的なこともあるだろうから、すべての場合において当てはまる訳ではない)。

 

・分かりやすいキャラクター:二人の「めあ」
このように神楽めあには、アクセル役のめあとブレーキ役のめあ、2人のめあが住んでいると観察することもできる。
(*この観点は、演劇の登場人物の心理や人間性を予想して楽しむ「心理劇」的な視点である。)
ブレーキ役のめあは、とても真面目なのだがかなりズレている。アクセル役のめあが突っ走っても止められず、その結果に対してアクションを起こすことしかできない。今回の配信では、アクセル役のめあが「約束を破る」とき悪びれた様子はなく、ブレーキ役も結託して約束を破っていることがわかる。また、リハに1時間遅刻したのは不味かったが、本番に30分前に来るのはキモい、という論理もその理由(「自分が来ても気まずい」=自己肯定感の低さ)も含めて興味深い。
神楽めあのキャラクターを考える上で、上記の図式は非常に分かりやすい構図である。この図式を真に受けることで、世話を焼きたくなる、父性や母性をくすぐられる、というファンは多いのではなかろうか。たとえば、今回もモノマネされていた因幡はねるの言動は、上記の図式を意識しながら、面倒をみたい、母性を発揮したいという欲望を表している。

 

・「何もない空間」
しかし、神楽めあはこうした「心理劇」としての見方を排除してもいる。たとえば今回の配信は、キズナアイ的な「何もない空間」を選択している。最近の3Dお披露目の傾向からすると珍しい選択かもしれない。
「きちんと作られた部屋」は、フィクションへの没入感を増幅してくれる。例えば、この人はこういう部屋にすんでいるんだ、部屋には~が置かれているんだ、など。キャラクターに関する知識を深めることで、より劇に「入り込む」ことができるだろう。
このように「何もない空間」では、キャラクターを構成する要素ではなく、キャラクターの身体性が強調される。本稿の前半部に当たる「演技力」の分析は、この身体性の強調に依存していると言ってもよい。
(*VTuberの歴史として考えるならば、キズナアイと電脳少女シロの対比が考えられる。演劇史的に考えるならば、フランス演劇における「真実らしさ」、自然主義演劇における「リアリズム」などが考えられるだろう。そして「何もない空間」は、ピーター・ブルックの同名の著書を意識したキーワードである。)
また「何もない空間」は、つくりもの感の強いものであると考えられる。部屋としての機能を削ぎ落としていけば、リアルな部屋とはかけ離れていき、フィクションに近づいていく。しかし、神楽めあが「見えない椅子」に座ったり、豪快に水を飲んだりするとき、やはりそこにある「現実」が透けて見えてくる。こうした休憩のシーンは、VTuberによっては隠す選択をする場合も多いが、神楽めあは開けっ広げである。ここでも「現実と虚構の揺さぶり」が行われているのである。

 

・まとめ
このように、神楽めあ3Dお披露目配信を通じて、以下4点の「現実と虚構の揺さぶり」があったことを確認した。①時間の意識、②演技の型、③キャラクターとしての心理、④配信する空間。そして、この4点が基本的には「自然体」で行われていることは、非常にレベルが高いということも指摘した。
神楽めあは、そのコミュニティの外側に居る人々にとっては単に「汚い」キャラクターでしかないかもしれない。しかし、演劇的なキーワードと「現実と虚構の揺さぶり」という概念を用いることで、表面的な印象論以上のものに接近することができた。以上の分析が、「没入感」を基本とするVTuberの見方を相対化するものであることを願うことにしたい。

◆【資料】Activ8・大坂武史氏のインタビューや記事のまとめ①(2016-2018)

 

*本記事では、VTuberを運営する会社のひとつであるActiv8・大坂武史氏の発言シーンをまとめていく。
**今回は、単に「時系列順のまとめ」であり、発言内容の分析は別稿で行う。また、キズナアイの発言もまた別稿にまとめる。
***文字情報がきちんと残っているなど、重要だと思うものには「★」を付した。
****誤記・抜け等あると思いますので、よろしければコメントやDM等でお知らせください。

 

 

---【2016】---

 

・2016/09/05:株式会社Activ8(アクティベート)設立。
https://upd8.jp/about/

 

・2016/09/15:ホームページ作成
https://activ8.co.jp/
*アーカイブは以下の通り。
https://web.archive.org/web/20180121062726/https://activ8.co.jp/
**Google検索では以下のホームページもヒットするが、現在は削除?されており、アーカイブも確認できない。
https://activ8.wiki.fc2.com

 

(・2016/11/29:キズナアイTwitter上で活動開始。Youtubeは12/01から。)

 

★2016/12/23:キズナアイ3Dモデルが配布された際の「MOGURA」PR記事。
https://www.moguravr.com/kizuna-ai/
*プレスリリースの名前に「株式会社activ8」とある。これが運営会社の名前が出た最初の例かと思われる。

 

---【2017】---

 

・2017/02/25:Twitter上で「Activ8」が呟かれた最初の例?
https://twitter.com/mahirochamu/status/835210464430694400
*「Activ8」という言葉は海外ですでに使われているため、検索が難しい。そのためこれ以前に使われている例がある可能性はある。

 

★2017/12/07:「Tokyo VR Startups」Demo Dayの開催。Activ8はキズナアイの事例について紹介したようだ。
*12/08の記事
https://jp.ign.com/vr/20123/news/vrarmrxrtokyo-vr-startups4
**12/09の記事
https://thebridge.jp/2017/12/tokyo-vr-startups-3rd-demoday
***12/24の記事
https://www.sankeibiz.jp/smp/business/news/171224/bsj1712242000001-s1.htm

 

---【2018】---

 

・2018/01/11:「Tokyo VR Startups」の報告書とActiv8についてのツイート。
https://twitter.com/alpaka/status/951365783333974016
⇒リンクは以下のものと思われるが、非公開?になっており見ることができない。
https://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?template=ir_material_for_fiscal_ym&sid=43498&code=3903

 

・2018/01/21:Activ8のホームページがアーカイブされる。
*上記参照。厳密に言えば、2017/11/07に最初のアーカイブがされているものの、確認することができない。確認できた方は方法をご教授ください……。
**この時点では資本金が「資本金 / 1,000,000円」と書かれている。

 

・2018/02/03:ホームページがアーカイブされる。会社情報の表示において「資本金 / 22,490,500円」に変わり、資本金が大幅に増えている(資金調達①)。

 

・2018/05/24:ホームページがアーカイブされる。「資本金 / 47,490,500円」に変更(資金調達②)。
https://web.archive.org/web/20180524162829/https://activ8.co.jp/

 

★2018/05/31:PRTimesに「upd8」設立の記事が投稿される。
https://prtimes.jp/main/html/rd/amp/p/000000003.000033882.html
*PRTimesに掲載された初めての記事。
**以下のツイートは、Twitter上で「大坂武史」の名前が呟かれた最初の例。
https://twitter.com/sugitahiroaki/status/1002080817429041153

 

(・2018/06/27:『ユリイカ』発売。)

 

★2018/07/07:「MoguLive」での大坂氏最初のインタビュー(聞き手:Yoshitomo Nagai氏)。
https://www.moguravr.com/vtuber-activ8-interview/

 

★2018/07/20:TOKYO OTAKU MODE BLOG内の「第1回VTuberサミット」と題した対談。リンクは前編だが、中編・後編と続く。
https://blog.otakumode.com/2018/07/20/v-tuber-summit-1/

 

・2018/08/10:「Activ8大坂武史×コルク佐渡島庸平対談」。
https://www.manga-news.jp/article/9710/
*上記は、恐らく対談の内容に関する記事。現在はロックされ、アーカイブなし。
**下記の記事は対談の告知(2018/07/21)。
https://www.manga-news.jp/article/9399/

 

・2018/08/28:Tech Crunch Japanの記事。Activ8の資金調達。
https://jp.techcrunch.com/2018/08/28/activ8-raising-600-m-yen/
*「同社はこれまで資金調達については公表してこなかったが、Tokyo XR Startupsなどが既に投資をしており、今回の資金調達は3度目、シリーズBラウンドにあたる。」

 

・2018/09/04:「失敗しないVTuberの導入ノウハウと名刺交換会」セミナー開催。
https://www.lab-kadokawa.com/release/detail.php?id=0079
*2018/08/31に告知されたもの。

 

・2018/10/05:「B Dash Camp」開催。イベント内の一部でVTuberに関する対談があった。
https://twitter.com/BDashCamp/status/1048092963337719808

 

・2018/12/13:「【XRセッション】iNTERFACE SHIFT 2018」開催。
https://vot.connpass.com/event/111682/

 

★2018/12/28:ハフポスト日本語版によるインタビュー(聞き手:Ryota Nasu氏)。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/12/25/activ8-osaka-kizunaai_a_23626974/

 

★2018/12/31:MOGURA VR編集部による、VTuber運営中心にキーパーソンへの聞き取り調査。
https://www.moguravr.com/vtuber-key-person-2018-2019/
*2018年末の時点での各社の視点をみることができる、大変興味深い資料。