★「VTuberという演劇のために(仮)」:夢月ロアの表現方法について

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・以下の文章は、夢月ロアと金魚坂めいろの騒動について述べた文章の一部である(最終更新:2020/11/06)。あまりにも述べるべき内容が多かったこと、また金魚坂めいろに対する記述に難しさがあったことから、頓挫していた。とりあえずほぼ完璧に書けている、夢月ロアに関する部分について公開しようと思う。

・文章全体を完成させ、公開するかどうかは、まだ未定である。この文章を進めるには、多くの時間と労力と精神力を使うから。
以下の文章にみられる弱点としては、まず具体例の不足が挙げられると思う。使用している資料は、今回の騒動に関するものだけであり、主張の裏付けとしての配信アーカイブの分析などが示されていない。
また、当時はまだ話題自体がタイムリーであり、ある程度当事者へ向けたメッセージという側面が強かったため、多少説教臭くなっている点も否めない。

・とはいえ、結論はいまも変わっていない。この騒動のキモは、本来交わり得ない2つの表現方法の対立と折衝であり、他の問題ではない。VTuber(に関わらず表現者全員)には、相手の表現を真摯に理解し、自分の表現を正しい言葉で表現できることが、厳しい基準で求められると、筆者は信じる。

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【3】夢月ロアとキャラクター(RP)

さて、夢月ロアの主張から見ていこう。彼女の主張は、10/21の23:00ごろにされた次の2ツイートで確認できる。

https://twitter.com/yuzuki_roa/status/1318912752413364224
https://twitter.com/yuzuki_roa/status/1318915034345451520

夢月ロアの主張の背後にあるロジックとはなんだろうか。それは、一言でいえば、VTuberの構造において重要な要素である「キャラクター」を守りたい、というものである。
夢月ロアにとって、キャラクターの持つ重要な要素として「魔界訛り」がある。なぜ「訛り」なのか。それは、公式サイトに書かれた「魔界からやってきた悪魔」という揺るがせにできない設定の、明確な根拠となる要素であるためだ。「お前は本当に魔界からやってきたのか」という素朴な疑いに対して、喋り方で答えを示すことができる。彼女の「訛り」は、公式設定の根拠であり、キャラクターを立てRPを守るために、絶対に欠くことのできない要素なのである。
このキャラクターが崩れなければ、キャラクターのギャップとして様々なことが説明可能になる。たとえば、夢月ロアのでたらめな食生活は「悪魔」的であり、わざわざ「中の人」(想像的パーソン)の特性を持ち出すまでもなく、悪魔というキャラクターで説明できる。また、彼女が他人に優しくするなどして「天使」的に思われれば、それはキャラクターのギャップとして説明ができる。このように、パーソナルな要素は、キャラクターを守る(RPする)ことによって、キャラクターやキャラクターのギャップとしてリスナーに受容される。

また、上記の①②の文章において夢月ロアが強調しているのは、このRP(キャラクター)がファンと共に培われた、としている点である。
VTuberはリスナーとの相互作用(承認)が本質的にあり、それがなければVTuberとは言えない。たとえば、月ノ美兎は初期の配信で、自らの画像を消してゲームを取ったことについて「これがバーチャルYouTuberなんだよなあ……」と呟いた。形式的には、モーションキャプチャ以前に画像が映っていない時点でVTuberとは言いがたい。しかし、月ノ美兎は自らの状況を先の言葉で無理やり言い換えることで、リスナーに「これがバーチャルYouTuberなのか……」と承認させたのである。このように、たとえ形式的にVTuberとみなされなくとも、リスナーがそう認めれば、VTuberであると言える。夢月ロアは以上のことを、感覚的によく理解しているのだろう。
また、VTuberがひとつの演劇であるからには、役柄や物語設定などが観客(リスナー)と共有されていなければ、演劇として成り立たない。たとえば、イギリスロマン主義の大家、コールリッジは「不信の宙づり」という言葉を用いて、小説の読者や演劇の観客は、そこに描かれる設定をいったん真実として受け入れる必要があることを説いた。VTuberのリスナーにおいても、「中の人について詮索することは野暮だ」という言葉などに代表されるように、あくまでキャラクターのレベルにとどまって鑑賞し、中の人=想像的パーソンを考慮したり暴き立てるべきではない、とする考え方が(リスナー全員ではないにしろ)現在も続いている。こうしたリスナーの協力があってこそ、VTuberという演劇は成立する。夢月ロアは以上のことを考え、上記の発言に及んだのだろう。
まとめると、夢月ロアの「訛り」はリスナーによって承認されることで、公式キャラクター設定の根拠として機能していた。そして夢月ロアは、特にリスナーとの関係性において、そのことを誇りに思っていたかもしれない。彼女の「訛り」は、リスナーとともに作り上げてきた「夢月ロアという演劇」を、代表するものなのである。

夢月ロアには、上記で述べたように、(1)キャラクターの根拠+(2)リスナーとの関係性の証明という点で、「訛り」にこだわる理由があった。
しかし、金魚坂めいろには、公式設定から考えて、「訛り」がある必然性がない。彼女の公式設定には、特定の地域への言及がないだけでなく、金魚坂めいろの姿は普通の人間であり、特定の地域の要素は一切ない。そのため、金魚坂めいろの「訛り」は中の人=想像的パーソンの性質として説明するのが自然である。彼女の「訛り」と彼女の公式設定には、必然的な関係がない。
ここまでであれば、夢月ロアが金魚坂めいろの表現に口を出す必要はなかった。しかし、金魚坂めいろの用いた方言は、津軽弁とかではなく、夢月ロアとほぼ同じ方言であった。これは、夢月ロアからすれば、自分が誇りとしてきた表現である「訛り」を取られたように感じたかもしれない。金魚坂めいろが「魔界訛り」を使うことは、夢月ロアのキャラクター設定の根拠を破壊するだけでなく、夢月ロアとファンの相互作用によって培われてきた関係性をも破壊するものであり得た。つまり、夢月ロアというコンテンツを成立させる重要な靭帯を断たれたに等しい。
以上の論理によって、夢月ロアは金魚坂めいろに対して、抗議を申し立てたのであった。

(*上記の論理を踏まえれば、夢月ロア側から運営を通じ、金魚坂めいろに対して「九州のどの方面出身か」を明言し、九州発のライバーとして活動してほしい、という提案がなされた、という噂がある理由もわかる(鳴神裁の1回目の動画を参照)。夢月ロアは、キャラクター設定とその根拠の一貫性に強く拘っていた。しかし、上記の提案は金魚坂めいろがどのような表現をしたいのか、という関心が抜け落ちており、全く現実的でない(夢月ロアの論理を押し付けたものに過ぎない)。後述するが、自分がどのような負担をするか、という明言がなければ、交渉にすらならない。夢月ロアは、自分がどのように変わる準備があるか(そこに覚悟があるか)、明言すべきであった。)

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【3.5】補足

(1)なぜ夢月ロアは、方言の全面的禁止を言い渡すのか

これには現実的な理由が考えられる。
仮に、方言のコンセンサスを、厳密に定義付けるとする。しかし結果的には、守ることが非常に難しいルールの束ができるだけである。
次のようなルールを記述できる。

▼方言aは次のようなルールによって標準語・他の方言と区別される。
(1)「**という語が登場した場合、◎◎に変換する」
……
(38)「▽▽という文脈では、◇◇という表現にする」
以上、(1)~(38)の規則いずれかに違反した場合、アーカイブを削除すること。

このルールの束をすべて遵守することは非常に難しく、非現実的である。そのため、夢月ロアは話し方そのものをやめてもらうよう進言したのだろう(その提案もまた、非現実的であるのだが)。
しかし、以上の夢月ロアの論理は無視され、単に高圧的であるという印象だけが残った。


(2)なぜ夢月ロアは、運営を通さずに話をつけようとするのか

これは推測(つまり筆者の妄想)に過ぎないが、夢月ロアは運営も金魚坂めいろも信用していなかったから、ではないだろうか。
運営を信用していれば、3者での話し合いもスムーズに行われたに違いない。これも筆者の憶測でしかないが、運営は夢月ロアの(上で素描したような)論理を理解して行動したのではなく、(量的な)功利的判断をしたために、夢月ロアの信頼を失ったのではないかと思われる(後述)。また、運営が金魚坂めいろに伝えた言葉(たとえば「方言はパクリ」などの文言)に間違いや誤解があると、夢月ロアは考えていたのではないだろうか(伝言ゲームの失敗)。
また、金魚坂めいろに関しても、自分の誇りが傷つけられたこともあってか、必要以上に不信を抱いている。たとえば、金魚坂めいろは①で述べられているように、夢月ロアの主張をふまえ、標準語で配信することを試みたが、それができなかった。しかし、夢月ロアはそれすらも信用できなかった。彼女は金魚坂めいろのアイデンティティを疑い続けていた。そのため、自分の耳で事実を確認するために、直接会話をすることをしきりに求めていたのである。
しかし、その試みは物理的パーソンについて知ることが難しいために、挫折が決定付けられている(いくら金魚坂めいろと直接話したところで、金魚坂めいろのアイデンティティを証明することなどできない)。むしろ、夢月ロアはその不可能性に面して諦めたかったのかもしれない。金魚坂めいろがどういう人物か知ったうえで、諦めや覚悟を決めたかったのかもしれない。

しかし、そうした望みはすでに断たれた。運営が金魚坂めいろに対して、ルールにのっとった処罰を行ったためである。後述するが、この運営の行為により、2人が直接言葉を交わす機会(交渉、諦め、謝罪、赦し等)すら奪われてしまった。これは結果的に、にじさんじ内を(一部であるにせよ)2つの陣営に割ったまま、運営を続けていくことを意味する。

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【4】夢月ロアのすべきだったこと

(A)夢月ロアの客観的な立場

夢月ロアの謝罪ツイート(①②)には、パワハラを糾弾するリプライが相次いだ。筆者はこのリプライ欄を参考にしながらこの文章を書いたが、ハッキリ言ってキツかった(精神が狂うかと思った)。様々な辛さがあったものの、「自分の正しさは揺るぎない」という信念のもと、「間違い」の烙印を押された人物に対してはボコボコにして、憂さ晴らしをして良い、という悪意が丸見えであるのが一番つらかった。あの謝罪ツイートに付いたリプライは、失敗学・紛争解決的に見て、そのほとんどに価値がない。なぜか。

まずこうしたリプライは、発言に対する感じかたは、人によって大きく異なるという事実を無視している。たとえば筆者は、個人的には、夢月ロアの発言が「高圧的」とは思わなかった。それは、筆者が日頃から「人間には本質的に上下関係などなくすべて対等」と思っている異常者だからでもあるが、この記事で述べている論理を克明に想像している(夢月ロア・金魚坂めいろの正義を仮想的に理解している)からでもあるだろう。その反面、当然ながら、夢月ロアの発言を高圧的と思う人もいる。この発言をどう解釈するかは、人による。
またこうしたリプライは、当事者の発言・感情が一番重要であり、まわりの人間が何を言ってもしょうがない、ということを無視している。結局、リプライを送った人々の個人的な感じ方やトラウマは、ハッキリ言ってどうでも良い。大事なのは、夢月ロアと金魚坂めいろの感情だろう。一部の心ない人々の自己顕示欲(歪んだ正義感)に、2人の感情はズタズタにされている。あくまで重要なのは、当事者の感情に寄り添うことである。「これは圧がある。怖い。パワハラだ。私はそう感じた」というリプライは、小さい正義をふりかざして、2人を傷付けていることに気付いてない。
もうひとつ言うとすれば、夢月ロアを叩きまくり、あたかも金魚坂めいろの代弁をしているかのような態度は、暴力的である。なぜなら、金魚坂めいろは「金魚坂めいろ」として発言することをすでに奪われており、そうしたリプライをやめさせることもできないからである。

さて、夢月ロアが、金魚坂めいろに比べて力を持っていたことは、リスナーの自己顕示欲にまみれたリプライを参照せずとも、客観的にみてわかる。たとえば、①在籍期間が圧倒的に長い、②実績がある:総再生数・スパチャ額・メンバーの人数。夢月ロアは、金魚坂めいろとのやり取りのなかで、まさに①②をふりかざしてしまっている(「1年半」「ファン」などの言葉)。これだけで充分である。
そして、夢月ロアが自らの客観的な立場について全く無頓着であったことも、メッセージの内容からわかる。たしかに、【3】で述べたように、ファンとの関係性は重要である。しかし、その関係性は力を持つのであって、他人に向けて良いものではない。


(B)夢月ロアの交渉力

さて、夢月ロアが送ったメッセージからわかるように、夢月ロアは金魚坂めいろと何らかの対話を望んでいた。しかし、直接の対話は実現することはなかった。この対話が実現しなかった理由に関して、運営にも金魚坂めいろにも原因を求めることはできるが(後述)、ここでは夢月ロアの交渉力について述べてみたい。

この騒動での言動を見る限り、夢月ロアの交渉能力は高いとは言えない。

(1)まず、夢月ロアは、自身の表現内容を変えうるのに、その可能性を示していない。つまり、夢月ロアが譲歩する可能性が示されていない。たとえ仮想的なものであれ、落としどころが示されていない提案に乗る人間はいない。
(2)ライバー同士の直接的な連絡はしない、という運営とのルールを破っている。これは運営への不信が表面化した行動ではあるが、こうしたルール違反をすることにより、交渉を有利に進めることはできなくなる。
(3)意図がみえない衝動的なメッセージを複数回送ってしまっている。また、全体的に感情がのったメッセージになってしまっている。交渉において、本当の感情を見せることはマイナスに働く。彼女の立場(先輩であることなど)からすれば、かなり下手(したて)から、注意深くアプローチする必要があった。
(4)これは筆者の憶測でもあるが、夢月ロアは「話せばわかる」という楽観的な見方をしていた可能性も高い。自分の立場を真摯に説明すれば、わかってもらえるという見方である。しかし、かなり甘い見通しであったと言わざるを得ない。

以上の(1)~(4)のために、夢月ロアは交渉の場を作ることに失敗したと言えそうである。しかし仮に、上記の問題が解決され、交渉の場に進んだとしても、交渉は決裂していた可能性が高い。上記の謝罪ツイートを見る限り、夢月ロアは問題の本質を理解できていない(そのため批判のリプライが相次いだのだが、そのリプライも的を外しているので、ただのネットリンチになっている)。それは、「金魚坂めいろがどのような表現をしたかったか」という観点である。
あくまでも今回の騒動で重要だったのは、金魚坂めいろがどのような目標を持ち、どのような表現を行いたいと思っているか、であり、方言はその表面的なアイテム(道具)のひとつに過ぎない。これは夢月ロアの立場ならば、すぐにわかることだろう。
そもそも夢月ロアが運営に伝えた正確な言葉は確認できないが、少なくとも運営は、この問題を「方言の使用」に関してのことであると認識している。このことにまず、自分(夢月ロア)がやってほしいことはそれではない、とハッキリと反対するべきだっただろう。
方言がパクリであるか否か、方言がどの地方のものであるか、は偽の問題である、と筆者は考える。繰り返しになるが、この騒動で考えるべきは、夢月ロアと金魚坂めいろが、それぞれどのような目的・論理をもち、何を表現したかったのか、である。その問題のレベルでとどまっていれば、どれかの要素を調整することで交渉がまとまっていたかもしれない。交渉が決裂したとしても、お互いの表現について深く理解したあとであれば、これほど破壊的な終わりになることもなかったのではないか。
夢月ロアは、自分の表現について確固たる論理を持っていた。それは素晴らしいことだが、それを他人に無条件で押し付けてはならない。夢月ロアがすべきだったのは、金魚坂めいろの表現の論理について関心を持ち、それを態度で示すことであった。


(C)まとめ

□運営との伝言ゲームにおいて、間違いや違和感があったら、すぐに訂正をする。

□自分が客観的にみてどういう立場であったのか自覚する。特に相手との客観的な上下関係について。

□交渉をしたかったら、(1)自分もリスクを負う姿勢(変わる覚悟)をみせる、(2)NGワードを使用しない、(3)感情をみせない、少なくともこの3つの条件を守る。

□相手の表現したいことや、抱いている感情について考え、思いやりを表現する。

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しがない物書きのメモ(2021/02版)

・久しぶりに少し長めの文章(約23000字)を書いたので(詳細はまた今度告知できると……いいな……)、いくつか発見(というか当たり前なことの再確認)と課題が見つかったので、メモがてらまとめておく。

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▼発見

□やる気があるうちにやる
*けっこう物事の真理だと思う。特に物書きなど、少し時間をかけないと成果物が見えにくいものは、やる気がある早いタイミングでやらないと、どんどんやる気がなくなる。初期衝動を大事にしよう。

□5分だけやる
*5分だけでもやろう、と思って作業を始めると少なくとも30分くらいはできる。最初から30分やろう、と思うと気が重すぎる。ほんの少しだけやるか~、という軽いノリでやっていくのが良い。

□型やパターンを意識する
*最も単純なパターンとして、メモ段階で、抽象的な主張には具体例を、抜き出した具体例には抽象的な言葉を、それぞれ付けておく。また、パラグラフ・ライティング等、定型があることで文章が進むこともある。

□内容を削る
*当然、すべての要素を入れたくなるが、変にこだわった部分が文章全体を壊していることも多い。今回は、要らないっぽいところの文字色を薄い水色にして、何日か経ってから消した。削ったものをとっておく場所を作っても良いが、意外なほど再利用されない。

□具体例を優先する
*やりたいことリスト(書きたいことや雑なアイデアの箇条書き)と、具体例(資料)の往復を意識する。変更するのはやりたいことリストの方で、具体例を優先する。観念を優先すると、逆に文章が壊れる(明晰さを欠く)。

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▼課題

・モチベーションの維持ができなかった
*これは最初の「やる気があるうちにやる」と同様の視点。時と共に減衰していくやる気を、どういったきっかけで補充できるのかを研究すべき。定期的なフィードバックがある環境をつくる、など。

・内容まとめや要約の量や質の改善
*里程標のように、ちょこちょこ内容の要約が書いてある方が読みやすく親切だとは思うのだが、まとめの方法などで迷うことが多い。論理が複雑になりすぎている(あるいは飛躍がある)サインと考えるべきか。また、どこからどこまでまとめて要約するか、も意外と難しい。

・論理の明晰さがガクッと落ちるポイントがある
*けっこう核心部に近付けば近づくほど論理が複雑になるパターンが多く、自分でもなに言ってるのかわからなくなることがある。論理構成に関するチェックシートなどを作成して、校閲のように点検する方が良いかもしれない。

▼最高の音楽2020

 

・2020年に最高だと思った音楽たちを足早に紹介。形式ぐちゃぐちゃ、リンクもないですが備忘録ということでお許しをば。毎年やりたいと言いつつやれてないので、やる気がなくなる前にバッと書きます。

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・大沼パセリ「colors」
言うまでもなくrei sirose版。今年のはじめは精神的に参っていたので、昼にこれを聴きながら都会を徘徊してたのを覚えている。平たく言えば暗い恋愛ソング/アイデンティティソングなので、なぜそのとき助けられたのかはよくわからないのだけど、とにかくrei siroseの歌声の存在感に心をうたれたのだと思う。今でも好きだが、音程のレンジがエグいので歌うのは難しい。

神聖かまってちゃん「るるちゃんの自殺配信」
これも辛いときにとにかく聴いた。ある朝、電車内で中央線かどこかで人身事故が起こり、たぶん自ら命を絶ったそのひとに、めちゃめちゃこの曲を捧げたい気持ちで一杯になったことを覚えている。最近はあまり聴いてないけど、おそらく追い詰められたときにまた力になってくれる曲。そうならないのが一番いいけど……。

・いよわ「IMAWANOKIWA」
今年最大の収穫のひとつが、いよわを発見したこと。ここまで不安定さのなかで芯の通った曲がかける人はあまりいないように思える。そしてただただ単純に音ひとつひとつが聴いてて楽しく、面白い。歌詞もいい:自分の文章で勢い余って引用してしまうくらいには。1枚目のアルバムは人間関係が描かれていた気がするが、最近の曲は別の場所に突き抜けようとしている感じがとてもよい。詞に感じる知性が好き。来年もよろしくお願いします。

・100回嘔吐「NANIMONOにも成れないよ」
ずとまよの楽曲、これいいな~と思うと100%で100回嘔吐編曲だったりするので、調べてみると最高の曲しか書かない人だった。たぶんこの人と好きな曲とか考え方とか似てるな~、と大それたことを直感的に思えるような、親しみやすい音楽。たぶん明るい楽曲に後ろ向きな歌詞というのが、性癖に刺さるのだと思う。特に今回挙げた曲は、しばらく僕の指針になる曲のひとつかもしれない。後ろ向き万歳。

・BLAPPS POSSEの楽曲
最高。とにかくセンスしかない。こういう曲の言語化難しいのだが、手数の多さが本当に好き。さまざまな音楽の要素が混ざりながら展開していく様が、聴いてて飽きが来ない。この感覚、PSYCHIの音楽とも似ている。アプローチの仕方は全然違うけど。こういう曲を見つけることができるので、ディグる作業は定期的にやっていかないとな~、と思う。

・ZOC「ヒアルロンリーガール」
この曲も多くの人が今年ベストで挙げそうな曲。ハッキリ言ってめちゃくちゃ複雑な曲(歌詞と歌声)だと思う。思うけども、普通に可愛らしいアイドル曲でもあるので、そのあたりのバランス感覚に驚嘆する。語りたい気持ちはあるのだが、うまく言葉が見つかっていない。

・emon「どりーみんちゅちゅ」
ちょっと古い曲。これは普通にPiza氏のMMD動画に感銘を受け、ルカってめちゃ可愛くね?と久方ぶりにキャラ萌えをした、というだけ。emonはこれ系の曲をそれほど作っていないが、この曲はシンプルで完成されたボカロ系ポップだと思う。難しいところはないのだが、音作りがめちゃくちゃ成功している。

キリンジ「君の胸に抱かれたい」
完璧な洗練を果たした曲。サビの多幸感がヤバイ。特に語ることはないが、演奏したら能汁が死ぬほど出そうだな~、とかも思う。PVが素敵。

Erykah Badu「Window Seat」
この曲もディグって見付けた重要な収穫。とにかくカッコいい。シンプルなのにオリジナリティが溢れてる感じがよい。サビでフワッと抜ける感じも性癖に刺さる。じっくりと聴くとボーカルのノイズなどもそのまま活かしていたりして、現代の流行りを先取りしてるともいえるかも。PVも色んな意味でカッコいいので是非。

ピノキオピー「ラヴィット」
めちゃくちゃ流行りそう!と思ってそれほど流行らなかった曲。全方位に喧嘩売りそうなめちゃくちゃ皮肉だからか……。僕が女性歌い手だったら絶対歌うぞこれ。楽曲の感じというよりは、普通に歌詞が好きで、自分では珍しいパターン。短いのも◎。

・Ado「うっせえわ」
これを抜いて今年を語れないよな~、という感じの曲。最初なんとなく避けていたのだが、ピアノVer.を聴いてから原曲を聞き直したことを思い出す(今月の頭くらい)。どうやって歌うんだ?と思ったが、デスボイスの練習を平行してやってたお陰でやり方を理解する。けっこうこの曲を通じて自分の引き出しがめちゃくちゃ多くなった気がする、感謝。Adoから学ぶことが死ぬほど多いので貪欲に吸収していきたい……。

BUMP OF CHICKEN「新世界」
この曲もとにかく多幸感がすごい。PVも好き:自分がおねショタ好きであることに自覚的になれる。誰かフリクリ(旧)でMADを作ってくれ。シンプルな歌詞+曲だからこそ、みずみずしい感情を思い出すことができる。

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・おわり。①メンヘラオタクっぽい選曲に、②謎に尖った楽曲が入り、③多幸感に弱い、という感じ。今回入れなかった曲を含めても、大体そういう傾向になると思う。来年も最高の曲にたくさん出会えますように。
寒いので「クーネル・エンゲイザー」でも聴いて世界の終わりに思いを馳せ、暖かくして寝ましょう。

★「没入感をずらす」:VTuberとVRゲームの親和性について

 

▼「VTuberVRの親和性について」というテーマでの議論があったようなので、雑駁ながらコメントを試みる。

(前編)
https://note.com/oktamajun/n/n1ec8aa72a264

(後編)
https://note.com/oktamajun/n/nf949ecc447aa


▼この書き物が「商業的に役に立つ」かどうかは正直よくわからない。むしろ、筆者の考え方は芸術(アート/アルス)としてのVTuberに近付いていっているので、ふつうの市場からすれば無用の長物と見なされる可能性は非常に高い。


▼さて、前編で述べられている、没入感・実在感・臨場感という3要素(+当事者感、VTuber側の言い換え表現)は、演劇(や文学)における「不信の宙吊り」(コールリッジ)の延長として捉えられる。

https://artscape.jp/artword/index.php/%E4%B8%8D%E4%BF%A1%E3%81%AE%E5%AE%99%E3%81%A5%E3%82%8A

コールリッジの時代でさえ(というか、今よりも想像力が必要な時代だったからこそ)、VTuber界隈で言う「中の人を詮索するのは野暮だ」に近い考え方があった。


▼個人的にはやはり(当ブログで繰り返し指摘しているように)、その不信が成立しているところ(宙吊りではなく完全な不信)にVTuberの面白味があるのであって、そういう意味では(正しい)VRゲームの目指す方向とは逆方向であると言える。
つまりVTuberとは伝統的な(古典的な)演劇ではなく、メタ演劇なのである。そこでは没入感を壊すというよりも、没入感という感じ方を受け入れたうえで、その漢学をどのように「ずらす」か、に焦点が置かれている。

(*VTuberとゲームの関係は、お笑いの「モノボケ」にかなり近いと思うが、まだ理論的に断言できる自信がない。)


VTuberというメタ演劇の構造を積極的に活用しているVTuberとして、月ノ美兎がいる(拙文参照)。
https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/10/16/031645


VTuberという演劇に内在する2つの思想の対立を描くのが月ノ美兎だとすれば、そもそも演劇ではない場所に飛ぼうとするのが神楽めあである(拙文参照)。
https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/08/01/164219


▼さて、VTuberにとって、ゲームとは演劇における小道具に過ぎない。キャラクターを重視するVTuberも、パーソナルな要素を重視するVTuberも、その点においては変わりがない。VRゲームにおいても、状況は同様である。
こうした前提のもと、VTuberの観客は、ライバーが「どのようなゲームを選択するか」「ゲームをどのようにプレイするか」といった観点でゲーム配信を見ている。観客は、こうした「データ」を収集し、これらを「根拠」として、ライバーに関する関係性や物語を「VTuberと共に」作っていく。
たとえば、最近の流行りの『天穂のサクナヒメ』では、ライバーがどのような田植えをするか、という点が注目されている(そこだけをまとめた切り抜きもある)。ここではごく素朴に言って、几帳面/大雑把という性格の分類ができる。観客は、ライバーがゲームの中で、どのような選択をするか、という点に注目している。


▼個人的に最近のゲーム選びで感動したのは、周央サンゴ(にじさんじ)の『トマトアドベンチャー』実況である。これは筆者の思い出のゲームであるから(選ばれるだけで嬉しい)だが、それだけでなく、周央サンゴは(もちろんすべてではないが)台詞を演劇的に読んでいく、という丁寧なやり方をしているのも好印象だった。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPn_ydpuhps7mWL6IupNnkotvSEidvWTw

(**ちなみに、最近ちょっとバズった周央サンゴの配信は『アイドルマスター シャイニーカラーズ』をプレイしながら、変態的に細かく知性に富んだ?コメントを繰り返す配信である。これだけ細かくコメントしてくれるのは、作者冥利に尽きるというものだろう。是非。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPn_ydpuhps590p0wPujWzeSSFgnN9ebZ


▼ゲーム選びが個性的なのは、月ノ美兎、戌神ころね、黛灰といったライバーが思い浮かぶ。1~2年前は、たとえば叶(にじさんじ)が時折変なゲームをプレイしていたりということもあったが、最近ではずいぶんゲームが画一化されてしまったように思える。それは、マイナーなゲームだとどうしても再生数が伸び悩んだり、という事情も考えられる。たとえば、叶のアーカイブの再生数を見ると、APEX配信のときが特に多いことがわかる。(とはいえ、叶自体はやりたいゲームをやるスタンスなので、再生数はそれほど気にしていないとは思うが。)
こうしたメンバーに選ばれるゲームは、チープだったり古かったりするが、独特のおもしろさがあるゲームだろう。少し理想的な言い方をすれば、VTuberがゲームをすることによってはじめて、そのゲームのおもしろさが伝わるのである。あるいは現実的な言い方をすれば、そのゲーム単体は一人でやっても面白くはないが、「VTuberと一緒にやる」から面白いのである。


▼リスナーから見て、たまたま、そのゲームが面白そうに感じたり、そのライバーの配信に参加したいと思ったりして、ゲームを手にすることはあり得る。しかし、それは本質的な見方ではない。リスナーにとって本質的なのは、このVTuberがどのようにゲームを使って演じるか、である。

(***ここで、上記の議論がVTuber以外にも当てはまる、ということを認めておこう。顔出し配信者やYouTuberにも、同様のことが当てはまる。ただし、VTuberにおいて機能するルールは、普通の配信者と大きく異なるため、単純な同一視には注意が必要である。たとえば、先に述べた「不信の宙吊り」など。)


▼ゲーム実況が、ドキュメンタリー映像のように、本物らしく見えることは重要である(という考え方もある)。
しかしその一方、たとえばこの前のホロライブ3期生による『スマッシュブラザーズ』配信のように、ほぼ作り物のコント(アドリブだが)に見えるものでさえ、文脈を知っていれば面白いというものになっている。

https://youtu.be/CnZ3pbdIAPI

この配信は、『ヱヴァンゲリヲン』のパロディネタ(潤羽るしあの叫び声が初号機に似ているというもの)がホロライブ界隈で話題になっていた、という文脈がなければ、さほど面白くはない(筆者の感想です)。しかし、特に何かを記念した枠でもないのにもかかわらず、同時接続者数が10万人を越える配信となってしまった。

(****いままでは、外国語圏(特に英語圏)のリスナーはうまく日本語圏のVTuber(のニュアンス)にタッチできなかっただけでなく、そもそもリスナーの母数が少なかった。しかし、母数が格段に増え、るしあの咆哮は言葉が分からずとも面白いため(?)、上記の配信は賑わいを見せた。)


▼ネタ的に見れば、撮れ高がある(配信の見せ所になる)のは、「バグ」や「上手く行かない」部分であったりする。
たとえば、はかせふゆきが先日『Papers, Please』配信において起こしたバグは、早速切り抜かれている。

https://youtu.be/eKUGonpEuIY
*4:13:30~4:17:30あたり。

花畑チャイカ・椎名唯華・夜見れなによる、VRホラー配信は、そのゲームの内容よりも、彼らのリアクションが注目されているように思える。たとえば、VR酔いのためグッタリしたチャイカと椎名、トイレへダッシュするチャイカ、終始ぴんぴんして楽しそうな夜見など。

https://youtu.be/_ELdk7kwiL0


▼まとめ

*基本構図として、配信者全般は、ゲームを演劇の小道具として用いる。リスナーは、配信者がどのようなゲームを選ぶか、ゲーム内でどのような選択をするかに注目している。

*そうした演劇のなかで、ゲームのおもしろさが再発見される。あるいは、リスナーは、VTuberとともにゲームをするから、ゲームがおもしろいと思える。

*上記のようなリアリティ・本物らしさに対して、作り物のコント・バグとの遭遇・ゲームが上手くいかないこと、といった、リアリティ・本物らしさを壊す(ずらす)要素も、ゲーム配信の醍醐味である。


以上のまとめを踏まえると「VTuberVR(ゲーム)の親和性」は、VTuberやリスナーが自ら発見するものである。そのため、上手く親和性を発揮できるVTuberもいれば、そうでないVTuberもいる(という、当たり前のつまらん結論になる)。筆者が強く主張したいのは、「親和性がない」とする言い方は思考(発見可能性)の放棄である(ので悪い)、ということである。
筆者個人としては、没入感・実在感・臨場感・当事者感といった要素に固執する必要はないように思える。むしろ、没入できなさ・実在感のなさ・臨場感のなさ・他人事であること、といった反対の要素に注目していくべきかと思う。

荒川修作の「養老天命反転地」は、人間のもつ「アフォーダンス」を逆手にとった施設である。

https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8A%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%A4%A9%E5%91%BD%E5%8F%8D%E8%BB%A2%E5%9C%B0%E3%80%8B%E8%8D%92%E5%B7%9D%E4%BF%AE%E4%BD%9C%E3%80%81%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%82%BA

VRゲームの設計も、このような発想からスタートすることで、新たな可能性に到達できるかもしれない。

★「VTuberと破滅願望」:郡道美玲についての補足

・以前書いた、郡道美玲に関する記事は、どうやら現在でも読まれ続けているようで、当ブログの注目記事1位に居座り続けている。

https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/09/03/012913

今回は、この記事に対してコメントをいただいたので(相当前に。遅れてすみません)、応答をしつつ、記事の更なる明確化を計りたい。この記事のように、読者を得ているからこそ、誤解もありそうなものである。そうしたメッセージの誤配について、筆者は放置するのではなく、できるだけ明確化して答えたい。そういう意思表示のために書く。

(註:上記のように息巻いているが、長期間放置していたら色々面倒になったので、この記事はスケッチ程度にとどまっている。明確化など微塵もできておらず、誠に申し訳ない。)


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 id:mmm143

郡道は3月以降からコロナの影響で給与が発生しない状況になったというツィートをしている。記事に取り上げられてる配信での発言も「コロナで仕事がない」状況下での話なので、「いまは」やってないと理解するのが良いかと。
https://twitter.com/g9v9g_mirei/status/1234125973580206080
https://twitter.com/g9v9g_mirei/status/1234354917269069824


「郡道は本当は教師じゃなかった!」派が居てもいいとは思うが、その配信の発言を根拠にするのは違うかな。

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・まずは大枠から応答していこう。
筆者は、上記の記事において、郡道美玲の「物理的パーソン」について述べた訳ではない。つまり、筆者は現実の世界に生きる人物について述べたのではなく、郡道美玲というコンテンツの一部である(リスナーが勝手に想像する)「想像的パーソン」について述べたのである。
mmm143氏は、筆者の立場を≪「郡道は本当は教師じゃなかった!」派≫と要約しているが、それは筆者の立場ではない。筆者は郡道美玲が、本当に(現実世界において)教師であるかどうか、については興味がない。あくまで前回の文章は、郡道美玲という演劇(コンテンツ)の特徴を述べたまでのことである。
つまり、この記事は「郡道美玲は、本当は教師じゃないのに、教師だと嘘をついていた!」と糾弾する記事ではない。VTuberという特殊な演劇において、舞台の上で、自身の役柄を否定することにどんな意味があるか考察したものである。そのため、現実世界の郡道美玲(いわば彼女の「中の人」「魂」)が実際に教師であったとしても、どのような職業だったとしても、今回の論理は成り立つのである。


・さて、少しずつ詳細を見ていこう。mmm143氏は、コロナの状況や郡道美玲のTwitterからわかる情報を加味すると、郡道美玲は「いま(そのとき)」教師でなかった、と言っているのであって、ずっと教師ではなかった、と言っているのではない、と主張していると筆者は解釈した。

念のため確認しておくと、すでに述べた通り、筆者の関心は想像的パーソンにあり、現実世界がどうなっているかはどうでもよい。

また、mmm143氏は、筆者の記事の結論を華麗にスルーしている(論点をずらしている、と解釈できる)。
あくまで筆者が述べたかったことは、郡道美玲が自らの役柄を否定することによって、自らのパーソナルな要素に注目させ、その結果としてコンテンツが外部に対して閉じる可能性、である。郡道美玲が現実世界において教師であるかどうか(教師ではない!)、ではない。
ここでは、さらに別の言い方でこの主張をパラフレーズしておこう。郡道美玲のリスナーは、郡道美玲に「教師」というキャラクターを否定されて戸惑うというよりも、キャラクターの否定によって、想像的パーソンに注目して良いのだ、と再確認している。これで安心してパーソンに注目し、キャラクターのことなど考えなくてよい。演劇が正しく行われているかなど、考えなくてよい。こうした考えがエスカレートすれば、自然と「全肯定」=コンテンツの閉じ、に至る。


(註:ここで、該当箇所の書き起こしをしようと思ったが、萎えたのでやめる。筆者が述べようと思ったのは以下の論点である。
・「教師ではない」ではなく、「いまは教師ではない」または「いまは休講中である」などと言えば良い
・年齢など、他の設定もあわせて否定している
以上の理由から、筆者はコロナという文脈をもって郡道美玲の発言を限定化することは難しい、と考える。
……と書こうと思っていたが、まあどうでもいいや、となったのでやめる。)


・コンテンツの収集が足りなかったことは反省するべきだろう。この配信だけを根拠にするのではなく、Twitterでの発言を含めた彼女の言動全体から考えるべきであった。彼女の言動のあまりに小さい一部分を拡大しすぎたことは間違いない。
(ただし、元の記事で「これは郡道美玲というコンテンツの一部分でしかない」という強調は数回行っている。)
筆者は上記の指摘をうけて、今回の郡道美玲について言えることは、さらに限定的であると修正する。
(**「神は細部に宿る」などと言いたいところだが、この言葉は全体の俯瞰が済んでからの話だと勝手に解釈しなおす。)


・これでコメントには応答し終えたが、今回このことを考え直し、また別のアイデアが浮かんできた。それを以下に素描する。

今回の事例は、演劇の比喩を用いて単純化すれば、たとえば教師役のAさん(本業は事務員)が、すでに演劇が上演されているのに、舞台上で急に「わたしは教師ではない」と言い出した、というケースとして想定できる。
このとき「わたしは教師ではない」という言葉は、≪①演劇における役柄を否定している≫のか≪②現実世界における事実を述べている≫のか、判別できない。むしろ、両義的な発言ととるべきだろう。
前回の文章において、筆者はとくに考えることもなく①の解釈をとった。しかし、上記のアイデアがなかったために、そのことを明確に述べることができなかった。その結果、②の解釈をしていた方(たとえば、mmm143氏)の指摘(解釈)が生まれたのである。②は元の発言に最初から組み込まれた意味であって、②の解釈が生まれることは不思議ではない。①と②の解釈は両立する。


・このことにどのような問題があるか。

このVTuberの発言の両義性は、ナンバ氏の3層理論の眼目(目的)のひとつを否定するものである。つまり、理論に期待されている機能のひとつに、「どの階層に向けての評価か」を明確にできる、というものがあったわけだが、否定されている。曖昧さが明確になっている、つまり「どのような両義性か」が可視化された点で評価できるが、あまりに楽観的な見方はできない、という限定ができるだろう。


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・この記事の執筆は1ヶ月程度放置されていたが、以下の切り抜きを視聴したために存在を思いだし、現在、このように、補足の補足を書き始めた。

https://nico.ms/sm37834669

この切り抜きは以下の配信から作成されたものである(23:50~27:12辺り)。

・2020/11/16
https://youtu.be/7-nTYpurIqw

この切り抜きに関しては、前回の筆者の主張が例証されている感じで驚いた、以外にあまり感想はない。たとえば「ファシズム」云々も、好きなだけやればいいと思う(ただ、国際関係論的に言っても苦しいと思う。ファシズム国家と付き合うこと=リスク、という認識が広まれば、ファシズム国家はさらに過激な行動に出て、最終的に滅亡すること、歴史が教えてくれている)。「VTuberはいずれ廃れる」という言葉も、前回の筆者の分析における「コミュニティの閉じと衰退」を考えれば、それほど不思議な認識ではない(郡道美玲は、VTuberはいずれ廃れるという認識を持っているからこそ、演劇を否定しコミュニティを閉じる、という見方もできる)。


・ここからは、郡道美玲というコンテンツについて思い付いたアイデアを「優越の笑い」「破滅願望」というキーワードを軸に、書き付けてみる。

いちいち動画は貼らないが、先日の御伽原江良と郡道美玲のコラボにおいて、罰ゲームの土下座を御伽原に無理やり強要する郡道、という切り抜きがあった。
この一幕は、「優越の笑い」のすれ違いとして認識できる。郡道は、罰ゲームのくだりのなかで、ひとの土下座を見るのが大好き、といった発言をしてから、上記の行動に及んだ。これは、観客にも「嘲笑」を求めている発言と読み取れる。いまから「優越の笑い」をします、人をバカにしたり価値を下げることで笑いを取るので、笑ってくださいね、という合図である。しかし、結果的には、優越の笑いは上手く起こらず、郡道が御伽原の上にのっかり「じゃれ合う」形になり、彼女たちは笑い得たが(じゃれ合いは幼児や動物に共通の笑いである)、観客は(一緒になって笑う以外は)笑えなかった。これは、昨今「優越の笑い」への厳しい視線があることを無視した結果である。
むしろ、たとえば郡道が「ひとの土下座を見るのが大好き」と言ったあとに、自分がへまをして、土下座している自分を見る羽目になる、という展開の方が(ベーシック過ぎるが)自然に笑える。
先のファシズムという下りもそうだし、モノマネに歯向かうやつはブロックしていく(と面白い)という発想も、自分が優越の笑いで笑いたい、というスタンスがにじみ出ている。こういう「フリ」があるからこそ、いわゆる「郡虐」のギャップが発生するのだろうが、本人が自覚的かどうかはよくわからない。つまり、「フリ」ではなく、本当に面白いと思ってるのかもしれない、という疑念が払拭できない。
なんにせよ、彼女が「自分がみんなを笑わせる」のではなく、「みんなが自分を笑わせてくれる(それ以外のやつは面白くない)」という内向きの思考であることだけは、よくわかるのではないか。いわゆる「内輪ネタで盛り上がる」に近い。


・以上の考え方は「破滅願望」と名付けることもできるだろう。たとえば、VTuberがいずれ廃れるという思想、コミュニティの閉じと衰退の実践も、滅亡への願望のように思えてくる。
破滅の規模は、当然ながら、破滅するものの規模が大きいほど大きい。だからこそ郡道は、無理して自分を大きく見せようとするのではないか。
また破滅とは、虐待のことではなく、一切がなくなることである。つまり「郡虐」は彼女の欲望に合致しない。彼女が望むのは、立場を入れ換えながら、無限に繰り返されるSMプレイ(演劇)ではなく、一切の終わりである。
そして破滅は、ファンと共に行われるのがおそらく美しい(とされる)。郡道美玲はファンが居なくては成り立たないのだから、終わりのときもファンが共にある。


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「寂しくなるのはなんでかな
泣きたくなるのはなんでかな
消えたいと思ったら
君がそばに居てくれるから?
(離れないでいて 離れないでいて……)」
ジグ『レントリリー』

★VTuber批評の機能不全:或る溺死寸前体の呪詛

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Heine Kleine
この世界がそうだよずっと ねえずっと
臭いものに蓋してきたのは
Heine Kleine
皆穴だらけの心を見透かされないように
生き抜いていくしか無いからさ

煮ル果実『ハイネとクライネ』

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【1】はじめに

まず、この文章を読んでいただけてるということ、そのこと自体がとても嬉しい。ありがとうございます。「文章を読まれてうれしい」という気持ちは、絶対に忘れないようにしたい。とはいえ、この文章の非常にネガティブな性質から、読者諸賢は途中で読むのをやめるかもしれない。それでも、一度でも目を通して下さったことが嬉しい。感謝したい。
さて、動機である。この文章は、私のVTuberについて書いた文章が全く読まれなくて(反応されなくて)ムカつく、という全く個人的な感情(怒り、恨み、妬み、悲しみ)に基づいて書かれており、究極的には「お前の人格に難があり、能力が無いから悪いんだろ」という一言で終わる。しかしその言葉(個人因)に反抗し、筆者の文章が読まれない環境因について書いていく。
とはいえ筆者の最近の感情は最悪であり、ルサンチマンで爆発しそうである。というわけで、理論的な文章というよりは、人生が不全に陥った人間の怨恨、恨み節(うらみポエム)としてお付き合いいただければと思う。以下、いちおう文章を節に分けているが、順番に特に意味はない。

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【2】批評の死?

非常に大きな捉え方をすると、いま筆者はあるコンテンツの批評が死ぬという事件に直面している。いやむしろ、この記事によって事件として認知されることを望む。

(*筆者は東浩紀氏に対し、謎にアンビバレントな感情を勝手に持ち続けてきたが、こと批評の延命に関しては素晴らしい仕事をしているという認識に変わった。)

批評は、素人然とした(バカっぽい)問題提起、無理矢理なほどのテコ入れ、端から見れば無謀なパフォーマンス、などによって延命されうる。批評がいのちを保つということは、コンテンツが死なないで済む。筆者の基本的な立場は、VTuberを生き延びさせるために、批評は必要であるという立場である。
筆者は、いまや書き物(批評)もVTuberもいのちの一部である。筆者は、慣れないパフォーマンスで自らのいのちさえも、なんとか繋ごうとしている。

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【3】VTuberから逃走する書き手

有名な書き手は、もう、VTuberについて書かない。数字を持った書き手がVTuberについて文章を書かなくなってきただけでなく、そうした書き手はそもそも注意散漫であり、すでにVTuberに飽きている。
そうした書き手は、VTuber界隈が死のうとも「そうなんだ。あのときは良かったナア」「アア僕の言った通りダ。VTuberはクソだったんダ」などと宣うに違いない。なかには書かなかった後悔をするマシな人物もいるだろうが、どうだろうか。

ただし、そもそも生活の事情としてVTuberについて書きたくても書けない人もなかにはいるだろう(時間がない、VTuberについて書いても金にならない)。それでも優先順位を付けてるではないか、という手厳しいことも言えるが、ここは差し当たりV批評を受容する層や、出版界の感性的貧困/構造的問題のせいにしておこう。

2018年前半、VTuberについて書くだけである程度読まれた状況については、幸いであった。このとき、あるべき批評の順番は逆転し、注目されるからVTuberについて書くということもあり得た。そうした人物が現在VTuberについて書くとは思えない。

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【4】VTuberから逃げ遅れた書き手(筆者)

ちなみに筆者は、無職のバキバキ童貞実家住み(25)であり、時間は潤沢にある。このことから、僕の文章のつまらなさは僕の能力の足りなさに帰属することもできる。

(*こういうクソつまらん自己嫌悪(個人因への帰属)は楽しいので、こういう記述はどんどんやる。しかし本稿では、基本的には環境因に集中する。)

というか、そもそも、にゃるら氏がアニメやゲームについて指摘していることがVTuberについても当てはまっているように思えてくる。筆者は現実に適応できず(無職)、いつまでもVTuberを見ながら暮らしている。そうこうしている間に、周りの友人や、VTuberの元・書き手、出版社は現実に適応していく(別のライフステージへ進んでいく。別の稼ぎ口・別の生き甲斐を見つける)。
すでにVTuberから逃げおおせた書き手は、波に巻き込まれた筆者に、気付くことすらない。筆者は、自業自得ながら、あわれにも、波間にて足掻いている。

(**2018年の末から2020年前半までは、筆者もVTuberについて詳述できる状況ではなかった。なので人のことは言えない。まあ、その期間でさえ、筆者は誰も見やしない文章を細々と書いていたことは事実である。筆者のTwitterやブログを、隈無く、参照のこと。)

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【5】書き手の責任

ユリイカ』に寄稿した人物の何人がいまもVTuberについて書き続けているだろうか。ここでわざわざ名前はあげない。無惨にも、何人かはすでにTwitterの更新すら止まってしまった。それに対して、何人かは今でも精力的に、VTuberについて言葉を費やしている。

VTuberから逃げおおせた書き手は、自分の業績にすでに古くなった文章を勲章のごとく書くのではなく(それらは理論的に更新された様子はない)、なぜ自分がVTuberに興味を持てなくなったか、現在のVTuberの趨勢に追い付けなくなったか詳述すべきだろう。それが、書き手としての誠実な態度である。書き手の責任である。
仮に、もう一度、VTuber批評が盛りあがったとしよう。もう一度、『ユリイカ』が特集を組んだとして、そのときだけ流行に乗って書こうというのは、単純に悪しき考えである。いますでにVTuberに興味を失っている人間が、VTuberが人気になった途端に興味を取り戻すとするなら、それは単純に流されているだけである。もうVTuberに興味を失ったのならば、目の前に積まれた原稿料(たいした額ではないだろうが)を無視し、誠実に辞退すべきだろう。それが彼らにできるだろうか。

まあ、VTuberやYouTuberと同じく、流行にうまく乗ることが書き手の処世術なのかもしれないが、個人的には普通に嫌いである。なぜなら、書き手の責任を果たしていないから。
ここの記述には筆者の怨恨が滲んでいる。こんなことを言い放ち、変なこだわりを持ち続けて、誰にも読まれない文章を量産し、勝手にキレ散らかし、こんな悪文を書いてしまう。救いようがない。しかしおそらく、筆者は、救いようがないバカの極致から突き抜けないといけないのだろう。なのでこうして、足掻いている。
救いようがないバカにすらなれない人物よりは、マシなのだと、溺れながら考える。

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【6】追いにくさ

VTuberについての「包括的な」文章が現れにくいことには、VTuber全体の捉えにくさが関係しているだろう。批評だけでなく、VTuberそのものが追いにくい。
しかし、問題なのはむしろ、すぐに追うことのできるメジャーどころでさえ、なにも書かれない、ということである。

「いやいや筆者よ、ちょっと待て。お前は現在でもnoteに大量のVTuber批評が投稿されていることを、全く恣意的に、無視しているな?」
ちょっといきなり誰か出てきたけど、まあ、質問にはこたえてあげよう。
noteのVTuber批評については、筆者も存在を確認している。そのなかには、おそらく全世界で1万回以上引用されるような、素晴らしき文章もあるだろう。しかし、少なくとも筆者は、noteの投稿されるVTuberについての文章をほとんど認識できないでいる。
そもそも、VTuberの書き手同士が、相互の文章を認識できないのは、調べる方の怠惰があるにせよ、お互いが非常に追いにくいという構造的問題もあるだろう。

お互いが言葉を引用して論じ合えない界隈は、信用が得られない。アカデミーに信頼があるとすれば、それは相互参照によって問題点があぶり出され、解決されるためである(と、とりあえず素朴に言える)。また、外部の理論を事象に適用することによって、外部と界隈を接続することができる。
筆者においては、たとえば、早良氏のブログに反応することによって交流が生み出され、以下の文章が早良氏によって書かれた。
https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2020/09/24/193413
なお、筆者は上記の文章に全く答えられていないが、前回の月ノ美兎論や、このような文章を書き始めているのには、上記の文章の影響がある。
また、最近筆者がメインで採用している方法論は、ナンバ氏の理論を改造したものである。そしてナンバ氏の理論は、分析美学(外部)の方法論とVTuberを接続しようとしたものである。
早良氏の書いた文章にも、アルチュセールをはじめとした哲学(外部)とVTuberの接続が試みられている。そして、早良氏はナンバ氏に批判的であるが、それは感情的なものではなく(多少はあるみたいだが)、哲学的立場の違いによる。
筆者の例で恐縮だが、ごく素朴に考えて、こうした繋がり/ネットワークこそが、信頼を生み出すと考えられる。

noteにおけるVTuber批評には、引用し合い議論する契機が欠けているのではないかと思う(間違ってたら、筆者に直接、該当のnoteを教えてください)。たしかに、単なる感想に過ぎないものでさえ、ひとつもないよりは、はるかにマシなのだろう。しかし、それではあまりにも貧しい。
こうした相互参照のネットワークが作られれば、少しはVTuber批評も追いやすくなるのではないだろうか。

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【7】出版とVTuber

出版界隈までも、VTuber(批評)について興味を失っている。こうした出版界の態度は結局、「VTuberは一過性のブームであった」という認識を表明し、偏見を強化しているだけであり、劣悪である。
まあ、現代には腐るほどネタがあるのだし、VTuberを取り上げずとも済む(いまは書名に「コロナ」を付けておくのが安牌であろう)。VTuber批評は金にならない(売れない)、というのもあるだろう。もしかしたらVTuber関連の企画が通っていないという可能性すらあり得る。

筆者は知り合いに出版関係がいないので、情報求むという感じ。マジで。DMください。取材させてください。

出版という観点からすれば、VTuberより不遇なのは、むしろYouTuberや配信者たちかもしれない。
個人的には、「ニコ生4大癌とはなんだったのか」という特集を立てるくらいの、バカさ加減が必要だと思う(この企画通すところ、相当頭がイカれてるが、筆者は本当に大好きになるし全力で応援すると思う)。

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【8】VTuber自身がVTuber批評を必要としていない

ふつうに一番怖いのがこの点かも知れない。VTuber個人が「VTuberは、外側からどう考えられているのか」について無頓着である、という事態こそ、コンテンツを急速に衰退させるように思える。いまは資本の力で無理矢理延命させているに過ぎない(いや、金はもちろん重要なのだが、金がまわらなくなったら死にうる、ということだ)。
筆者が最近何度も指摘している通り、VTuberは演劇であり、演劇の特殊パターンである。演劇の歴史においては、言うまでもなく、メソッドが培われてきた。筆者の文章は、VTuberのメソッドそのものだと考えているが、VTuberたちは、行き当たりばったりに活動していけば大丈夫と思っているようだ(筆者の文章は、現場の人物が読んでも大きな乖離がないように書いているつもりである。つまりそもそも、現場の人間は筆者の文章を読んでいないのだ)。
たとえば、月ノ美兎が構造の鬼であることはすでに指摘したが、それはつまりメソッドの鬼なのである。月ノ美兎だけでなく、がうる・ぐらにもメソッドがある。それを我々は発見できていないだけだ。
がうる・ぐらが「かわいい」という評価で立ち止まってしまうのなら、それは批評ではなく「みんなが言ってることを一緒に言っているだけ」である。少なくとも2つの問いがある:「なぜかわいいのか」あるいは「かわいい以外に言うことないのか」。こうした問いに答えを出すことが、メソッドに繋がる。メソッドがない表現は、単なる行き当たりばったりである。そのことに対して、VTuberたちは自覚的だろうか。

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【9】まとめ

さて、文章も終わりに迫ったが、まとめと銘打った割には文章をまとめる気もない。

一番声を大にして言いたいのは、結局のところ最悪のエゴイズムである:「みんなぼくの文章を読んでくださいぃ。みんなでVTuberちゃんと語ろうよ~。最終的には、VTuber批評で本を出させてくださいぃひぃいいん」。憐れ。

さて、この文章もおそらく、いつも応援してくださっている方々以外には届かず、広いインターネットの海を漂流するのだろう。

盛大な無視の堆積に、心からの呪詛を!

 

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「我らが誇りの看板に
泥をぬって ツバ吐いて 逃げてった奴らに
爆笑のスタンディングオベーション
うしろから浴びせる時に
負け犬のマーチのアウトロ
きれいなピアノが聞こえてくるんだ
死にゆくその時
光る物があれば いいのだろう
バイバイバイ」

いよわ『さよならジャックポット

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★「生々しいキャラクターのおぞましさ」:月ノ美兎とメタフィクション

 

滲む世界を/超えていく
何もかもを棄てていくから
私の中で/いつまでも
大好きな君でいてほしい

めざめP『うそつき』

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【要約】

月ノ美兎の表現には、常にメタフィクションがつきまとっている。「なぞのみと」は、既存の理論による分析からはみ出る存在であるが、メタフィクションという補助線を用いることで、VTuberの美学そのものへの皮肉、というメタフィクションとして読むことができる。

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【1】イントロ

本稿は「メタフィクション」という概念を用いて、月ノ美兎の表現を分析するものである。VTuberを分析する方法として、ナンバユウキ氏の「3層理論」があるものの、この理論を適用しても月ノ美兎の表現を汲み尽くすことはできない。筆者は上記の「3層理論」に手を加える仮説を提示したが、そうした操作も月ノ美兎にとっては、さして大きな意味はない。なぜなら、月ノ美兎がやってきたことは「メタフィクション」であり、そもそもVTuberの構造を暴露する作用を伴っているからである。

(*本稿の手に余るため以降は言及しないが、VTuberというコンテンツはメタフィクション演劇の最も尖鋭な形として捉えることができる。演劇研究者、演劇理論プロパーによるVTuberの研究がまたれる。)

(**ナンバユウキ氏の理論については下記参照。
http://lichtung.hateblo.jp/ (2018/05/19の記事)
また、上記理論に対する筆者の批判的コメントについては下記参照。
https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/09/21/025548

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【2】「メタフィクション」の導入

さて、「メタフィクション」とは何か。そもそも「フィクション」とは何かが定かではないのに、そのメタなど語れるはずもあるまい、という非難はもっともである。しかし、本稿ではメタフィクションを「フィクションの構造を暴露する表現」と差し当たり定義し、話を先に進める。

(*筆者は、これ以外のメタフィクションの定義について、どうかご教示下さいというスタンスである。)

メタフィクションには、次のような特徴がある:①自己言及、②構造の暴露、③パロディ、④枠構造。これ以外にもメタフィクションの特徴はあるが、本稿で用いるものを特別に選んだ。

(**たとえば、映画のカメオ出演のような例(作者の作品内での登場)は除いている。また、配信という行為は「作中内で登場人物が作者に語りかける」というメタ表現と重なるが、本稿では特に触れない。)

①自己言及:たとえば、漫画Aのなかの登場人物が「この漫画は面白くないなあ」と言いながら、漫画Aを読んでいる、という表現。また「ちゃんと青春漫画みたいに真面目にやろうぜ」という台詞は、登場人物が「青春漫画」というジャンルへ言及している。より先鋭的になれば「俺たちは漫画の登場人物だ」と、登場人物自身が言い出す場合も考えうる。

②構造の暴露:メディアを構成する要素を直接用いる表現。たとえば、漫画の登場人物がフキダシに噛みつきながら「この台詞マズイね」などと言う場合。映画の登場人物が、カメラを両手で押さえつけ、レンズにキスをする表現。アニメにおいて、完成した絵ではなく、ラフやL/O、原画のまま放送するという場合。

③パロディ:既存の作品を、それとわかるようにあからさまに模倣すること。既存の作品の有名な台詞をもじった台詞。『たけしの元気が出るテレビ』の「たけしメモ」を模倣する『リチャードホール』における劇団ひとり。天開司。

④枠構造:「**内**」と表現されるもの。絵画のなかに絵画が書かれている(絵画内絵画)。小説のなかの登場人物が書いた小説が長く引用される(小説内小説)。

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【3】修正3層理論による分類

さて、それでは実際に月ノ美兎の表現について考えてみよう。3層理論による分類は、キャラクタ/ペルソナ/パーソンであったが、本稿ではこれをより単純化して、キャラクター/キャラクターのギャップ/パーソナルな要素という分類方法で、月ノ美兎を分析してみよう。

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【3-1】キャラクター

これはまず、(a)月ノ美兎というキャラクターのビジュアルと、(b)公式サイトに書かれている文言、が考えられるだろう。要素に分解して整理すると、以下のようになる。

(a)2Dイラストであること・黒髪・長髪・青い眼・ヘアピン・制服(・イラストレーターのねずみどしの絵柄)
(b)高校2年生・ツンデレだが根は真面目・学級委員・頑張り屋だが少し空回り気味

そして、これらの要素から視聴者が勝手に想像するイメージ(c)がある。たとえば、「黒髪=清楚」という固定観念。このイメージ(史)は、オタクの想像力(の歴史)そのものであって、これはこれでかなりの分量の記述が必要になるが、本稿は特に触れない。その代わり、次に提示する「ギャップ」によって、固定観念が逆に強調されていることだけを指摘するにとどめる。つまり『ムカデ人間』の説明がされることによって、対立項の「清楚」が立ち上がってくる、というふうに。

(*(a)に挙げた要素は、初期の服装のものである。月ノ美兎はかなりの数の衣装を持っており、それぞれに異なる印象が付随すると思われる。本来は、服装が醸し出す印象とギャップ、パーソナルな要素、そしてメタフィクションの関係をそれぞれ詳細に語るべきなのだろうが、本稿はさしあたり最も初期の単純なパターンだけを示す。)

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【3-2】キャラクターのギャップ

月ノ美兎はまず、自身の最初の動画から「黒髪=清楚」のような固定観念を揺るがす。たとえば、最初の動画には上記(a)に分類できるもの以外にも、次のような要素が含まれていた。

・2018/02/08
https://youtu.be/8tTKwtgzJwA
(d)映画(バックのタイトルが不穏)・紅茶・モツ(赤子の拳)・バーチャルアイドル

不穏なタイトルばかりの映画群は、風紀を守る学級委員長というイメージを揺るがす。また、紅茶と委員長は整合的だとしても、モツというパンチのある食べ物、しかも特に好きなそれを「赤子の拳」と表現することは、普通の「委員長」イメージを飛び越えている。その一方、バーチャルアイドルという目標は、高校生という設定からして自然だろう(たとえば『ラブライブ!』等)。
こうしたキャラクターのギャップは、月ノ美兎が特別に行ったことではない。すでに、電脳少女シロやねこますによってキャラクターのギャップを生み出す方向性は確立されていた。前者は、清楚そうな女の子がFPSゲームをやるとサイコになるというギャップ、後者は、見た感じ狐の女の子が若い男性の声で世知辛い世間話をするというギャップである。

(*そもそも、キャラクターのギャップはVTuberに固有のものではない。通常の物語においても、キャラクターのギャップは描かれる。たとえば『プリパラ』の南みれぃと北条そふぃは、「プリパラ」内外での人格のギャップが大きい人物として描かれている。また、性格の解離を「多重人格」と結び付けて表現に用いる場合すらある(『俺たちに翼はない』『素晴らしき日々』など。特に後者は、解釈によっては多重人格ですらない)。)

(**VTuberと「多重人格」というテーマで最も重要なのは出雲霞である。彼女はその設定ともパーソンとも判別不能な振る舞いによって、構造的な分析を揺るがす。このことに関しては、また後日論じてみたい。)

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【3-3】パーソナルな要素

筆者は以前、「パーソナルな要素」を次のように分類した。この分類を月ノ美兎の表現に当てはめてみると、次のようになる。

(e)作為的なもの
①設定から逸脱した、個人的な情報
(ex.「モツ鍋にはビールが合う」「アマガミプレイ済み」発言)
②感情的・衝動的行為
(ex.クソゲーに煮詰まり、暴言を吐く)
③実写映像に写る影・手・本人の顔など
(ex.なし。ただし、いわゆる「中の人バレ」を考慮にいれるならこの限りではないが(中の人のTwitterには彼女の顔が実に挑発的に放置されている)、それでも当然、配信内で並置されたことはない。)

(f)不作為的なもの
①無意識的な動作、動きの癖、笑い方など
(ex.あまり動かないLive2Dだったため、特徴的な笑い方のみ)
②あくびやくしゃみ、せきなどの不随意的行為
(ex.初期の月ノ美兎は喉を痛めている期間があり、咳をしていることが多い)
③空間を感じられる音
(ex.洗濯機に足をぶつける音)

このように初期の月ノ美兎でさえ、パーソナルな要素は随所に散りばめられていた。しかし、これらの特徴はVTuberより前に、すでに「配信者」によって表現されたものではある。たとえば、上記と同じ分類枠を「永井先生」の配信にも適用することはでき、実際に成功するだろう。
あくまで、VTuberにとって重要なのは、(a)~(f)の表現群が、いわば「VTuberという入れ物」のなかに、ある階層構造をもって整理され認識されることだろう。たとえば、「永井先生」に「中の人」や「魂」がいるとは、普通は考えられない。視聴者が「中の人」や「魂」といった階層構造を発見し、それら階層構造同士が(ギャップなどの)関係性を生み出すことで、VTuber(ここでは月ノ美兎)が成立する。
そのため、たとえば「VTuberをみるのにそのような階層構造など認識していない/認識するべきではない」という言い方は、VTuberと「永井先生」を同一視してしまう、解像度の低い見方なのである(これは、こうした見方が無意味であるという意味ではなく、そもそもの見方が異なっており、見える結果が異なる、という程度の意味である)。

(*【5】のために先取りして言えば、VTuberはキャラクターであるが、生き物のように動く(生きる)。キャラクターの部分と生き物の部分が同居している様子は、比喩を用いれば、機械の身体と生身の身体が癒着した状態と表現できる。筆者は、こうした状態の前提には、≪(a)動くはずのないものも生命をもつ(素晴らしいもの)とする美学≫があり、かつ、≪(b)(a)の美学はおぞましいとする美学≫が並立しているものと考えている。
この、非常に偏った美学(a)(b)の並立は、VTuberの本質である。モーションキャプチャVTuberの形式的本質だが、美学(a)から導かれる要素に過ぎない。)

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【4】メタフィクションによる分類

次に「メタフィクション」として提示した要素を用いて、月ノ美兎の表現を分類してみよう。

①自己言及
ex.「これがVTuberなんだよなあ」
ジャンルとして確立したVTuberというワードを、≪自分の画像を消しクソゲーを取った状況≫に無理矢理当てはめた表現。これは、先の分類でいう(a)を消去してしまうことであり、VTuberから程遠くなるように思える。しかし、この時点で月ノ美兎は、(a)が消えても(b)~(f)さえ残り、その階層構造が保存されていれば、その対象はVTuberと言えそうである、ということを感覚的に把握していたのではないだろうか。

②構造の暴露
ex.初配信(Mirrativ)での以下の発言。
「泣きのモーションが用意されてない」
「キャラクターの崩壊がヤバイ」
キャラクターに表情が用意されていなければ、その表情は当然できない。このことについて特に触れる必要はないはずだが、ここでは意図的にVTuberの仕組みに触れている。また、キャラクターが自分のことをキャラクターと言ってしまうのも、構造に関するメタ表現だろう。

(*ただし、すでに最初の動画のなかで「8人のキャラクターが」と言っているように、この頃はこの言葉に違和感を持たなかった、という歴史的経緯があるかもしれない。)

③パロディ
ex.イケボ配信者(ボイスチェンジャーでのイキリト構文・ルイズコピペ)

・2018/03/06
https://youtu.be/CNdVhhktd_A
*41:40~

VTuberと大きく重なる部分をもつ「配信者」のパロディ。とはいえ、でび・でび・でびるの「でびっち」のように完璧なパロディではなく、部分的なものにとどまる。

④枠構造
ex.「へラピン」

・2018/04/01
https://youtu.be/tw4MSU90Ru0

月ノ美兎の胸元に刺さっているヘアピンが勝手に配信をはじめ、ヘラり、最終的に配信サイトの「ふわっち」の宣伝をして終わる、という配信。
筆者はこれを「VTuberVTuber」として捉えたかったものの、へラピン自体は一定の動きのリピートであり(モーションキャプチャではないという)形式的な面でVTuberではないため、厳密に言えば枠構造ではない。正確に言えば、月ノ美兎というキャラクターに含まれる要素(a)をキャラクターにしているので、「キャラクター内キャラクター」である。しかし、擬似的にVTuberの枠構造をもたらそうとした例としてカウントして良いように思える。
ちなみにこの「へラピン」は、「ふわっち」にいる配信者のパロディでもある。先程のボイスチェンジャーの例よりも、さらに徹底したパロディになっている。

(**へラピンは、のちの夢追翔などによる「マスコットキャラ選手権」に継承されていく。しかし、彼らの持つキャラクターのどれよりも、へラピンのほうがキャラクターとして深みがあると思われる(たとえばへラピンは、月ノ美兎への愛情が憎しみに転換している)。また、郡道美玲の「うさちゃん先生」は、キャラクターは強烈であるが、郡道美玲のものである必然性が、キャラクターではなくパーソナルなエピソードに基づいている。このようにへラピンは、キャラクター内キャラクターとしてより純粋であるとも言えるだろう。)

このように、月ノ美兎メタフィクション的な表現をかなり豊富に使っている。
注目すべきは、月ノ美兎はおそらく、こうしたメタフィクションを「笑い」として使用していることであろう。VTuberへ没入している状態から、はっと現実に連れ戻されることによる笑いである。それっぽい用語を使えば、連続性の破れを強調することにより、不連続性を暴露する笑い。これは、彼女が敬愛する久米田康治の作品にも共通する方法だろう。

(*2020/07/30に放送された『ダウンタウンDX』にキズナアイが出演したが、キズナアイに対して浜田が発した言葉は「裏でどうせ声やってんねんやろ」であった。これは間違いなくVTuberのメタ的な構造を利用したギャグである。ギャグの仕組みとしては、≪キズナアイの裏には誰もいない≫という約束/禁止を、浜田が破る(禁止の侵犯)という古典的な形になっており興味深い。)

また、月ノ美兎は「笑い」以外にメタフィクション的感性を発揮していることがある。たとえば、剣持刀也とのラップバトル。

・2018/10/11
https://youtu.be/FfjZmhu3GQY

ラップを「言葉遊び」「ダジャレソング」と表現することで、ラップという表現形式(構造)自体への攻撃になっていることが興味深い。これは剣持に向けられた言葉であるとともに、ラップの持つ「韻」という構造へ向けた言葉であり、メタ表現と言える。バトルの内容としては、剣持の用いるラップが「ラップ」に満たない「言葉遊び」や「ダジャレソング」であると攻撃しており、剣持はこれに応答できていない(とはいえ、メタ表現に応答するほうが難しいのであって、剣持の対応は順当である)。
このように、月ノ美兎の表現にメタフィクションはたえずつきまとう。彼女は主に「笑い」としてこれを用いているが、笑い以外にも用いられる場合がある。

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【5-1】「なぞのみと」と月ノ美兎

ここまで、修正した3層理論とメタフィクションの分類によって月ノ美兎を分析してきたが、これでも語り尽くせない部分が残る。かなり特殊なメタフィクションとしての「なぞのみと」の存在である。

(*このキャラクターは、平仮名で「つきのみと」と称されることもあるが、本稿では一貫して「なぞのみと」と記述する。)

「なぞのみと」が月ノ美兎というコンテンツに現れたのは、次の配信や動画である。

(1)2019/04/01:エイプリルフール(公式は非公開)
https://nico.ms/sm34896395
届いたビデオを開いたところ、なぞのみとが映り、こちらへ殴りかかる動作など、謎のアピールを繰り返す。月ノ美兎とは、身ぶりと「美兎ボタン」で会話をする。途中、月ノ美兎から食べ物(チキン)をもらう。『ハッピーシンセサイザ』や『ルカルカ★ナイトフィーバー』を踊り、気が済んだのかビデオを止める。

(**なお、自分は以前Twitterで、この放送内容とカスった内容(マックスヘッドルーム事件)に言及しており、勝手に感動した覚えがある。以下のブログを参照。
https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2019/06/16/232513

(2)2020/01/01:メジャーデビュー告知
https://youtu.be/kPd4AudNYdo
なぜか農作業?をしている。手前の月ノ美兎が「誰!?」と言っているため、前回の対面はなかったことにされているかもしれない(実際、前回のアーカイブは非公開である)。

(3)2020/04/01:エイプリルフール
https://youtu.be/gB2E54dzk30
ゲーム『RFA』で遊ぼうとしたところ、なぞのみとが現れ、放送をジャックする。背後の襖から出たと思いきや、パーティグッズと共に横から飛び出す。『ぴえんの歌』に合わせて踊るだけでなく、PV風の映像が流れる(B級ホラー的な躍動感のあるカットを含む)。
その後、月ノ美兎の放送画面になぞのみとが現れる。月ノ美兎は、視聴者が作成したアイテムを用いて、なぞのみとを追い払おうとする。ビール(銀色のヤツ)をあげる、プールに落として水責めする、サイリウムを与えてヲタ芸を踊らせ最終的に再び水に落とす。なぞのみとは観念したのか、足早にどこかへ去っていく。

(4)2020/04/20:「つきのみと没カット集」
https://youtu.be/o6-na8AVSqI
(3)で使わなかったものの再利用。月ノ美兎チャンネルの動画のなかで最も再生数が多い。冒頭に「未来の子供たちへ向けて」という白々しいキャプションがついたあと、全く関係のないなぞのみとの映像が流れる。

(5)2020/07/17:「Face App つきのみと」
https://youtu.be/XRK9xxfkhk4
なぞのみとがアプリを使って、自分の表情を変えようとしたところ、背景に笑顔が現れ卒倒してしまう。

(6)2020/09/07:60万人耐久バトル
https://youtu.be/qyIWjOSBr6c
チャンネル登録者数60万人を祝うためにやってきたなぞのみとが、勝負を仕掛けてきた。60万人到達まで『NyaNyaNyaNyaNya』を月ノ美兎は歌い、なぞのみとは踊り、力尽きたほうが負けという根比べが始まった。5000人ごとに月ノ美兎が謎の攻撃をし、なぞのみとは弱っていく。結局60万人に到達したことで、なぞのみとは墓石に変化する(あるいは墓石の下に埋葬される)。

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【5-2】「なぞのみと」とはなにか?

さて、改めて「なぞのみと」とはなにか。幾つかの視点から考えてみよう。

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①再生数の稼ぎ頭/「驚き」「恐怖」「笑い」

なぞのみとは、月ノ美兎というコンテンツのなかで、かなりの数の再生数を稼いでいる。(6)ではそのことを論拠に、なぞのみとが月ノ美兎を煽る場面さえある。
なぜ、このようになぞのみとは受容されたのだろうか。素朴に視聴者の反応を予想してみよう。まず、とにかくインパクトがある。その強烈なビジュアルと月ノ美兎との対比によって、視聴者の「驚き」や「恐怖」を喚起する。また、なぞのみとのちぐはぐな存在感、または理解しがたい存在が画面内で跳ね回ることによる、シュールな「笑い」もある。
この「驚き」「恐怖」「笑い」が、なぞのみと人気の理由の一部と、差し当たり仮定してよいだろう。それでは、この仮定と【1】~【4】の分析をもとに、さらに細かく考察すれば、どのようなことが見えてくるだろうか。

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②「なぞのみと」は誰か?

(1)のコメント欄からわかるように、なぞのみとへ対する問いとして最初に挙げられるのは、「この中に入ってるヤツは誰だ」である(この問いは(6)のコメント欄まで続いている)。月ノ美兎自身という説、月ノ美兎の友人(ご学友)という説、初期にはライターのArufaという説まであった。どうしてこのように、幾つかの考えに割れてしまうのだろうか。
たとえば、VTuberのぽんぽことピーナッツくんは、月ノ美兎/なぞのみとと同じく「着ぐるみ」をもつVTuberである。この二人の場合、VTuberと着ぐるみで、中の人が同じという確証がある。なぜなら、二人は着ぐるみになっても、VTuberのときと同じキャラクターとして振る舞うからである(特に、同じ声であることは間違いないだろう)。
しかしなぞのみとは、月ノ美兎と同一人物であるかを判別するのが難しい。たとえば、なぞのみとには声がない。そのため身振りのみで判別することになるが、これはかなり難しい。これは筆者が前回指摘した、物理的パーソンについて視聴者は知り得ない、ということに繋がっている。

(*ただし、キャラクターと想像的パーソンの共通点である「身長の低さ」という情報があれば、想像して一致させることはできる。)

この、なぞのみとを「誰か」に確実に帰属できない違和感が、驚きや恐怖に繋がっていると考えても良いだろう。もし月ノ美兎が、なぞのみとに声を与えていたら、こうした違和感を抱くこともなかったのである。

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③「配信」から排除された、異物としてのなぞのみと

なぞのみとは幾つかの点で、配信上のコミュニケーションの取り方としては特殊なキャラクターになっている。
なぞのみとと月ノ美兎は、コミュニケーションを取ることができる。しかし、なぞのみとには声がなく、「みとボタン」による代わりの声、マルバツボタンによる応答、身ぶり、踊りといった表現しかできず、コミュニケーションにおいて非対称的である。
また、なぞのみとは「配信ジャック」をしているにも関わらず、コメント欄と交流することができない。応答するのは月ノ美兎の声に対してのみであって、コメント欄や視聴者へのパフォーマンスは行わない。月ノ美兎のやり方によっては、なぞのみとの行動に分岐をもたらすことも可能だっただろう(たとえば、AとBの選択肢を用意し、視聴者の声が大きい/小さい方をなぞのみとが行動する、など)。しかし、なぞのみとは「配信」への参加機会すら奪われている。
こうして「配信」という相互作用から排除されたなぞのみとは、異物として恐怖される、あるいは笑いの対象になる。なぜなら、あくまでなぞのみとは、配信という出来事において当事者ではないからである(これは、なぞのみとが、リアルタイムの配信ではなく、おそらく録画であることにも関係があると思われる)。

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④「なぞのみと」は、どう分類できるか

まず、なぞのみとは、VTuberではない(2D・3Dソフトで作られた画像ではないため)。つまり(a)をもたない。
また、なぞのみとには、公式のキャラクター説明がないため、厳密には(b)ももたない。しかし、なぞのみとのキャラクターは視聴者にとって、ある程度一貫していると思われる。たとえば、イタズラ好き、おちゃめ、クレイジー、好戦的、威圧的といった要素が思い浮かぶ≒(c)。(5)を考慮すれば、意外と弱虫、といった言い方もできるだろう(ギャップとしてのd)。また、着ぐるみを用いているため、パーソナルな要素が強く表現される(動きの癖など=(e)(f))。
このように、なぞのみとは決してVTuberとかけ離れた存在ではない(すこし似ている)。しかし前述した通り、視聴者とのコミュニケーションは遮られており、あくまで形式的に似ていると言えるに留まる。

さて、メタフィクションとしてのなぞのみとはどう考えられるだろうか。
月ノ美兎のキャラクター要素(a)をキャラクターにしている点で、なぞのみとはヘラピンと共通している(④枠構造:キャラクター内キャラクター)。相違点は、一定の動きの繰り返しでしかないへラピンと異なり、なぞのみとには「着ぐるみ」という天然のモーションキャプチャがある、という点であろう。
しかし、その着ぐるみは(a)をもとにしているのにも関わらず、非常にグロテスクである。髪はボサボサ、顔は正しくあるべき位置からズレ、肌は不自然に膨らんでいる。(5)からもわかるように、なぞのみとも、自身のおぞましさについて自覚的なようである(≒①ある種の自己言及)。なぞのみとは、アプリを使用することによって、美しくなることを期待していたように思える。
ではなぜ月ノ美兎は、なぞのみとをこのようなビジュアルに仕上げたのだろうか。以下、コスプレの比喩を交えながらこのことについて考えてみよう。

なぞのみとを、≪2D・3Dキャラクターの画像を、現実世界に模写しようとした例≫として考えれば、コスプレもまた同様のことをしている。コスプレは、決してキャラクターの画像の模写に尽きるものではないが、模写の結果が評価されやすい表現方法だと、差し当たり言えるだろう。なぜなら、コスプレの美学に詳しくない人間でも、模写がオリジナル通りに行われたかどうかは判別がつきやすいからである。
そのため、コスプレの失敗のひとつとして、キャラクターの画像と現実のビジュアルがあまりにもかけ離れている、という状態があり得る。このことをなぞのみとに置き換えると、なぞのみとは月ノ美兎コスプレの失敗例である。大きい枠組みで言い直せば、なぞのみととは、VTuberのコスプレに失敗したコスプレイヤーである。
先に確認したとおり、なぞのみとはVTuberに形式的にすこし似ているが、キャラクターの画像ではなく、視聴者とのコミュニケーションが取れない点で、(存在論的に)VTuberではない。なぞのみととは、いわば、VTuberの出来損ないのコピーなのである。
しかし、こうした状況は、月ノ美兎によって意図的につくられたものである。この状況は、数ある選択肢から選ばれたものであるのだが、ではなぜ、この状況なのだろうか。

結論を先取りすれば、筆者は、月ノ美兎が、VTuberに関する2つの美学を暗示しており、そのうち片方の美学(a)が不可避的に選ばれることの皮肉として、この物語を作り出した、と考えている。

先の註釈で述べたとおり、美学(a)とは「動くはずのないものが生命をもつ(ことは、素晴らしい)」であり、美学(b)とは「動くはずのないものが生命をもつことは、おぞましい」である。
この物語において、VTuberかつオリジナルである月ノ美兎は美学(a)の体現者、VTuberの出来損ないのコピーであるなぞのみとは美学(b)の体現者である。美学(a)は、美学(b)という疑念を排除しながら存続している。
月ノ美兎はなぞのみととの戦いに、不可避的に勝利することで、美学(a)を守りきる。しかし、この物語は美学(a)の勝利というストレートな意味以外にも、美学(a)が美学(b)を暴力的に排除している可能性という裏側の意味があり、皮肉めいている。

こうした背景があるために、月ノ美兎は「出来損ないのコピーとしてのなぞのみと」という状況を選んだのだと言える。以上のことを、「なぞのみとの弱さ」という視点から言い直してみよう。

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⑤「なぞのみと」が弱いのはなぜか

月ノ美兎となぞのみとは(1)~(6)の戦いを繰り広げてきた。しかし、戦いが進むにつれ、月ノ美兎が有利になり、なぞのみとが不利になっていく傾向がみられる。

(1)や(2)の段階では、なぞのみとは単純に恐怖や驚きの対象である。月ノ美兎は特に攻撃的な干渉はしていない。
しかし(3)において、月ノ美兎の2D空間へなぞのみとを召喚できることが判明してから、力関係が月ノ美兎に有利なものへ変わった。(3)において月ノ美兎がなぞのみとをいじめる様子は、彼女のサディスト的側面、嗜虐的な面を示してもいる(彼女はそうした嗜好を半ば明言しているし、ゲーム実況やリゼ・ヘルエスタとのやり取りにおいても、そうした面は現れる)。
(5)において、なぞのみとは自身のおぞましさを内面化しており、またホラー的な表現にめっぽう弱いことがわかる。なぞのみとについて、(3)が物理的な弱さを示すものなら、(5)は心理的な弱さを示している。
そして(6)において、なぞのみとは音楽がかかると踊り出してしまうという(ほぼ弱点に等しい)設定付けがされている。また(6)の空間は、謎の攻撃を持ち、観客の助けもある月ノ美兎のほうが圧倒的に有利である。なぞのみとは、かなりアンフェアな状況で戦いに挑んでいる。
このように、なぞのみとは回を追うごとに、恐怖や驚きの対象としての強さを剥ぎ取られ、弱さを示す表現や不利な状況へ追い込まれ、最終的には墓石に変身して(埋葬されて)しまう。

ではなぜ、なぞのみとはここまで弱いのだろうか。
端的に言ってしまえば、月ノ美兎が負けたら困るからであり、そもそも月ノ美兎が負けるシナリオなど用意されていないからである。どういうことか。

もう一度、美学(a)と美学(b)に戻って考えてみよう。
月ノ美兎やほとんどのVTuberは、美学(a)が完全に達成される、直線的な歴史のうえを歩み続けているように思える。たとえば、「新しい生き方」としてVTuberが賞揚されるとき、それは特に顕著だろう。
しかし、美学(a)の裏側には、美学(b)がべったりとはりついている。このことを「なぞのみと」の物語は示している。比喩を用いれば、なぞのみとの物語は、美学(a)の直線的な歴史によって覆い隠された美学(b)を、無理矢理引き剥がし、露出させようとしている。
とはいえ最終的には、美学(b)の体現者であるなぞのみとは、美学(a)の体現者である月ノ美兎に破れる。仮に、月ノ美兎が破れるということがあったならば、なぞのみとが正式にチャンネルの主になるということだが、そんなことは起こりそうもない。
このことは、月ノ美兎が過度に死を恐れていることと関係しているだろう。なぞのみとの勝利は、直接的に月ノ美兎の死を意味している。そのようなシナリオを、月ノ美兎が書くとは思えないのである。

つまり、なぞのみとが弱体化していく背景には、月ノ美兎が死を恐れているという心理的な要素だけでなく、美学(a)の勝利の物語を示したいという意図も含まれているのである。
しかし、それは物語の表面的な意味に過ぎない。物語には、月ノ美兎が意図的になぞのみとを弱体化しただけでなく、嗜虐心のままにいじめた事実も含まれている。月ノ美兎は、力の差があるキャラクターに対して、オーバーな力を振るう人物としても描かれている。このことは、美学(a)のもつ暴力的な(露悪的な)側面を描き出している。

このように「なぞのみと」の物語は、VTuberという存在に対する盛大な皮肉(アイロニー)として成立している。美学(a)の勝利を祝うだけでなく、美学(a)がどれだけ暴力的(残虐)であるかを、この物語は同時に示している。そのために、なぞのみとは、配信から排除された異物として、オリジナルに対する出来損ないのコピーとして、過度に弱体化され敗北を運命付けられたキャラクターとして、描かれるのである。このようなプロセスを経た結果として、観客は「驚き」「恐怖」「笑い」を喚起されたのであった。

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【6】まとめ

このように、月ノ美兎の凄みは、単純なメタフィクションだけでなく、VTuberの美学において触れたくない部分まで触れ、掘り起こしたところにある。
月ノ美兎はおそらく、常に構造を見ようとしている。構造の認識があるからこそ、メタフィクション(構造の外側に出ること)が可能になる。美学(a)に対する皮肉が思い浮かぶのは、彼女が構造でものを考えているからではないか。

しかし、月ノ美兎はなぞのみとが敗北する物語を描いた。筆者の個人的な感想としてはやはり、なぞのみとが月ノ美兎に勝利するようなラディカルさを、実際に見てみたい。美学(a)をかなぐり捨てたVTuberは一体どうなるのか。
とはいえ、こうした筆者の皮肉な考えをよそに、VTuber業界全体としては、美学(a)の実現へ邁進するだろう。資本もそこに集中するかもしれない。通常のVTuberの構造は、さらに効率的に分かりやすく洗練され表現されるようになるだろう。
しかし、もし諸要素のみを効率化するだけならば、古き配信者たちと同様のものに過ぎなくなる(「VTuberは生主に過ぎない」という考え方)。構造が、しきりが、あいだが、要素同士の矛盾そのものがVTuberであるならば、それらを示せなければ、VTuberは特に新しさもない。メタフィクションは、VTuberの可能性(新しさ)を切り開くためのヒントになりえる。

なぞのみとは、墓石の下に埋葬されたかもしれない。しかし、墓からのあまりにも安易な復活こそ、まさにB級ホラー映画のパロディではないか。
なぞのみとの復活と、VTuberの持つ可能性が花開くことを願う。