★解離する2つの「パーソン」:ナンバユウキ氏論文へのコメント

★要約

ナンバ氏の3層理論における「パーソン」は「物理的パーソン」と「想像的パーソン」に分けることができる。アンチは、論理的にこの2つを同一とするのは難しいと主張し、ファンは想像や信頼によって、2つを同一視する傾向がある。

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・本稿はナンバユウキ氏の以下の文章についていくつかコメントを試みるものである。
バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン」
http://ecrito.fever.jp/20200901220007
(以下、引用時には「エクリヲ」と略記する。)

・はじめに少しだけ、本稿のスタンスについて言い訳しておく。筆者の立場でナンバ氏の文章を見ると、「あれがない、これがない」という指摘をしたくてムズムズしてしまう(し、本稿は「重箱の隅をつつく」ような指摘ばかりである)。しかしナンバ氏は、文章の要点をズらさないために(また、一般的な理論を構築するために)、意図的に具体例や複雑な例外を排除しているものと考えられる。本稿は、そうした意図的に排除した例外をわざわざ掘り起こしてしまう型の文章である、と一応書いておく。
こうした掘り起こしは、VTuberの「アンチ」と似た論法になるような気がしている(アンチの実際の文章を用意できていないので、筆者の経験則だが)。VTuberに対して反感を持つ人々がいるとして、どうしてそのような反感を持つに至ったか、という論理を考える文章に(結果的に)なっている。実際、今回検討する文章の第3章と呼ぶべき部分(「システムとデザイン」)は、反感・不和・対立といったマイナス面は注意深く排除されている。したがって本稿が、VE理論の裏側事情について理解が進む文章になるよう努力したい。

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【1】視聴者は「パーソンそのもの」ではなく「メディアペルソナ」を鑑賞する

今回の論文に入る前に、ナンバ氏の過去の論文「バーチャルユーチューバの三つの身体:パーソン・ペルソナ・キャラクタ(以下、2018と略記)」について検討しておきたい。なぜなら、今回の論文における3層理論の説明は簡潔におさめてあり、詳細な論点は「2018」に書かれているからである。
http://lichtung.hateblo.jp
上記ブログ:2018/05/19の記事を参照。)
さて、「2018」には次のような一節がある。

「ここにいたって、しかし、わたしたちはパーソンそのものを鑑賞しているとは言えないことに気づくだろう。どういうことか。
というのも、わたしたちがアクセスしうるのは、メディアを介した(mediated)パーソンであって、パーソンそのものではないからだ。このようなメディアを介したパーソンの現れは、コミュニケーション研究において「メディアペルソナ(media persona(e))」と呼ばれる。」(2018、1-1)

このようにナンバ氏は、視聴者がアクセスできるのは、「パーソンそのもの」ではなく、「メディアを介したパーソン」=「メディアペルソナ」であることを確認している。

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【2】メディアを通じて現れるパーソンは「選択的」である

以上のことを、具体例に当てはめて考えてみよう。
774Inc「シュガーリリック」に所属するVTuber獅子王クリスは、いわゆる「設定」としては「小悪魔探偵」というべき内容が、YouTubeチャンネルの概要欄に記載されている。しかし彼女がときに飲酒しながら語る内容は、素朴に耳を傾ければ「悪魔」や「探偵」のそれではなく、「会社勤めの成人女性」のそれであることは容易に想像できる。たとえば、以下の配信を参照。

・2020/07/07:【雑談】めっちゃかいしゃいくたくない【獅子王クリス/シュガリリ】
https://youtu.be/yggtpmER1B4

この配信のタイトルは「めっちゃかいしゃいくたくない」であり、自分が会社勤めであることを隠していない。また、この配信ではお金にまつわる「パーソン」的な話が登場してくる。
このように、獅子王クリスは日常的にリアルな仕事の話をするが、それは「語らなくてもよかったこと」である。それをわざわざ配信にのせている(選択的)。
以上のことと類似した論点は、ナンバ氏によって以下のようにも確認されている。

「こうしたメディアペルソナがオーディエンスによってアクセス可能なものとなるのは、パーソンの性質の一部分がTwitterや動画といったメディアを通して選別されることによってである。その選別にはパーソン、そして周囲の製作者が関わっているだろう。」(2018、1-1「VTuberの分析」節)

しかし、このエピソードは「嘘」や「演技(台本に書かれた台詞/あらかじめ準備された言葉)」ではないだろうか。つまり、彼女の話は、大なり小なり脚色されたものであると考えることも可能である。
ナンバ氏の文章においては、パーソンの性質が選択的であることのみが指摘されており、「嘘」や「脚色」の可能性については特に言及されていない。そこで、本稿ではこのパーソンの性質に注目することで、VTuberに対する「疑念」について考えてみたい。
(*ちなみに、筆者はクリスを信頼しているため、上記のエピソードに嘘は含まれないと思う。根拠としては、彼女が真面目であるという印象、嘘をつくのが苦手そうだという印象や、オフコラボでのふるまいなどが挙げられる。)

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【3】「パーソン」概念の整理:「物理的パーソン」と「想像的パーソン」

以下、「パーソン」概念について整理をする。筆者は以下のように整理できるのではと考えている。

①「物理的パーソン」
*「生身のパーソン」「パーソンそのもの」と同様。通常、プライバシーによって守られ、メディアに登場することはない。そのため、メディアに現れた「パーソナルな要素(物理的パーソンのもののように思える要素)」はメディアペルソナ(の一部)である。「物理的パーソン」を検証するには、実際にその場に立ち合うか、第三者が証言するしかない。また、厳しい独我論のように、パーソンの内面を想像することすらできない(物理的パーソンは検証できない)、と考えることも可能ではある(筆者はこの考えは極端であると考え、本稿では取り上げるが採用しない)。

②「想像的パーソン」
*「メディアペルソナ」からわかる情報をもとに、視聴者が想像するパーソン。筆者が推察するに、3層理論における「パーソン」は「想像的パーソン」と「物理的パーソン」が混在している(が、これは通常の見方であり、特異な見方ではないと筆者は考える)。
実際の人物である「物理的パーソン」と、観客の想像の産物である「想像的パーソン」は、物理的パーソンがプライバシーで守られている限り、その同一性を確証することができない。つまり論理的には、物理的パーソンと想像的パーソンは一致しているか不明である。しかし、実際の印象としては、両者を一致させる見方が多いのではなかろうか。この両者の一致が、3層理論やVE理論、パーソンとしての鑑賞の前提条件ではないかと筆者は考える。
(*前節で筆者は「獅子王クリスを信頼している」と書いた。このことは、想像的パーソンと物理的パーソンの同一性を想像した結果である。)

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【4】物理的パーソン①:VTuber同士でのプライバシーの保護

さて、物理的パーソンがプライバシーによって守られていることについて、具体例に沿いながら考えてみよう。
まず、VTuberは、VTuber同士でプライバシーを守りあっている。たとえば、VTuber同士はオフコラボをしても、ごく当然ながら、オフの内容をすべて話したりはしない。普通は、当事者同士でコンセンサスが取れている内容だけを話す。プライベートな話題に関しては、たとえば「真面目な話もいくつかしたよね」といった形でやり過ごす。こうした約束ごとをお互いに守ることで、お互いのプライバシーを守る。
(*こうした配信に乗っていない部分(動画にされていない部分)は、「裏」と呼ばれる。また、これは配信者やYouTuberにも当てはまるものであり、VTuberだけのものではない。)
たとえば、先日、ホロライブの桐生ココと天音かなたの同棲がスタートした。彼女たちは、同棲するに当たって、お互いのプライバシーを守ることを重要なルールと考え、配信上でルールを決めていた。ルールを決めた配信は以下を参照。

・2020/06/03:【#かなココ】そうだ、一緒に住もう。【桐生ココ&天音かなた/ホロライブ4期生】
https://youtu.be/-Vv29EA8YPY

たとえば、最初に文面化されたルールは「①勝手に部屋に入らない」である。家の中でもdiscordで確認をとった上で会うことがルールとして受け入れられている。
このように、たとえ同棲を決めたライバー同士でさえ、プライバシーをお互いに守る意識があることがわかる。

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【5】物理的パーソン②:視聴者による詮索の禁止

当然のことながら、VTuberの本名や住所は秘密にされるべきものである。どれほど先鋭的な活動をするVTuberでも、本名や住所を自らさらしたりはせず、致命的な情報は守っている(たとえば、私用のメールアドレスとパスワードなど)。
そもそも、他人の個人情報を詮索する行為は、日本の場合法律で禁止されている。ストーカーなども同様である。当然、VTuberのリスナーも同じく、このルールを守らなければならない。
(*逆に、住所や本名など、プライバシーをさらけ出しても、メディアペルソナでいることはできる。VTuberではないが、「ゆゆうた」がその筆頭例である。しかし、かなり特殊なパターンとして考えるべきであろう。)
この点がかなり暴力的な仕方で現れたのが、ホロライブの夜空メルに関する事案であろう。夜空メルのファンであったマネージャーが、その立場を利用して、夜空メルのプライバシーに踏み込もうとした。公式発表は以下の通り。

https://cover-corp.com/2020/05/25/%e5%bc%8a%e7%a4%be%e6%89%80%e5%b1%9e%e3%82%bf%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%83%88%e3%80%8c%e5%a4%9c%e7%a9%ba%e3%83%a1%e3%83%ab%e3%80%8d%e3%81%ae%e7%99%ba%e8%a1%a8%e3%81%a8%e5%bc%8a%e7%a4%be%e3%81%ae%e4%bb%8a/

当然、物理的パーソンに直接接触しようとする行為は、物理的パーソンに大きな負担を強いる。そのため現実的に考えて、視聴者は自身の想像的パーソンの確証を得るために、物理的パーソンに接触してはならない。
(**いわゆる「アンチ」のロジックで言えば、パーソンに対して最もダメージを与えられる行為は物理的パーソンへの接触である。これはときに殺人事件など、最悪な事態へ発展することもある。)

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【6】物理的パーソン③:パーソンの実際の内面

厳しい独我論的な見方をすれば、そもそも物理的パーソンと実際に会ったとしても、そのパーソンの内面についてはよくわからない、と考えることは可能である。たしかに、パーソンの言動からパーソンの内面を類推するのは容易いことではない。ウィトゲンシュタイン的にこの考え方を煮詰めると、パーソンの内面は決して知り得ない(あるいは存在しない)という見方まで行き着く。
しかし、こうした極端な考え方を取ることができる人間は一定数いるだろうが、すべてではない(多くの人間は、上記の説得をされたとしても、他人の内面を読む慣習を止めようとはしないだろう)。
パーソンの実際の内面を読むことの難しさは、ここまで極端な考えをとらずとも、十分考え付くことである。たとえば、過去に重大な嘘をついてしまったVTuberの言葉は、素朴に信じることが難しい。このように、パーソンの言動と内面を一致させるには、ある程度の信頼や想像力が必要になる。

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【7】物理的パーソン④:パーソンの動き

ナンバ氏の論文には、パーソンの身体性・動きに関する記述が現れる。たとえば、3層理論についてまとめている次のような一節である。

「たとえば、『キズナアイ』というVTuberは、「キズナアイ」というキャラクタの画像、そしてその動きをつくりだしているひとであるパーソン、そして、そうしたキャラクタの画像と重ね合わせられたペルソナからなる。」(エクリヲ、1-3)

エクリヲ論文や「2018」も同様に、キャラクタの画像の動きを作り出しているのはパーソンであると述べられている。しかし、キャラクタの画像の動きを作り出す物理的パーソンが、声(や性格)の主である物理的パーソンと同一人物であるとは限らない。
たとえば、ポン子(ウェザーロイド Airi)は週に1回の「フル充電」の際、気象キャスター山岸愛梨が動作と声を担当していた。しかし「省エネモード」の際、声は機械音声であり(まれに山岸が担当)、動きはスタッフが担当していた(2020年9月現在は「省エネモード」はなく、「フル充電」のみになっている)。
また、キャラクタの画像はそのままに、中身を変える遊びはVTuber間でよく行われている。最近では、にじさんじの夜見れなの3Dお披露目放送にて、夜見れなのマジックにより、花畑チャイカと椎名唯華の中身が一時的に入れ替わる演出がなされている。下記の配信を参照。

・2020/08/28:【3Dお披露目配信】アイドルマジシャンです!#夜見3D【夜見れな/にじさんじ
https://youtu.be/XZKIxpJQDuA
*10:30~13:20ごろ

(*にじさんじの「ゆがみん」のように、ライバーが自由にキャラクタを使用できるために、中身が一定でない存在もいる(動画サイトで「ゆがみん」と検索すれば、様々なライバーの様々なゆがみんを見ることができる)。また過去に話題になった「バーチャル蠱毒」の事例は、キャラクタの画像を一定にすることによってパーソンを強調し、競争させる例として興味深い。)
このように、キャラクタの動きを作り出す物理的パーソンと、その動きをもとに観客が作り出す想像的パーソンは、ときに一致しない。特に上記のポン子の場合は、物理的パーソンと想像的パーソンの一致を想像しなければならない。花畑/椎名の事例は、2つのパーソンの不一致という不自然な状態を意図的に出現させ、夜見のマジックにより解決させるという、一種の演劇(コント)の装置として機能している。これらの例では、2つのパーソンの不一致という疑念と、それを乗り越える想像力や信頼が前提とされている。
しかしこのことは、VTuber一般に常に当てはまる訳ではない(例外的な事例である)。素朴な見方のうえでは、あくまで「中身が替わりうるという可能性」という認識にとどまるだろう。また、状況証拠的に、中身が替わり得ないという確証も得られる。たとえば、ライバーが家に一人でいると明言しているときなど。ただしもちろん、その言葉は信用しなければならない。

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【8】メディアに現れる「パーソナルな要素」

さて、ここまで物理的パーソンに関する記述を行ってきた。では、視聴者はどのようにして想像的パーソンを作り上げるのだろうか。視聴者の想像は、メディアペルソナの一部である、メディアに現れた「パーソナルな要素」をもとに行われる。
(*メディアに乗るすべての要素が、想像的パーソンに回収されるわけではない。幾つかはキャラクターに回収される。)
以下に挙げる要素は「想像的パーソン」を構築するうえで、重要視される(と筆者が経験的に考える)要素である。

【作為的なもの】
①設定から逸脱した、個人的な情報
(ex.獅子王クリスの仕事・経済的な話。)
②感情的・衝動的行為
(ex.笹木咲・潤羽るしあがゲーム配信で怒り狂い、台パンをする。)
③実写映像に写る影・手・本人の顔など
(ex.*「手」が写る例:手袋付き⇒因幡はねる)
*「本人の顔」が写る例:ふぇありす/ゆうくん、犬山たまき/佃煮のりお、ポン子/山岸愛梨

【不作為的なもの】
①無意識的な動作、動きの癖、笑い方など
(ex.3D配信で、髪やHMDなどを触る動作。)
②あくびやくしゃみ、せきなどの不随意的行為
(ex.「VTuberくしゃみまとめ」は現在も更新が続いている。)
③空間を感じられる音
(ex.オフコラボなどでの部屋の反響、実写映像でのカメラ内蔵マイクの音質)

ここで、作為/不作為を分けているが、不作為のほうがより想像的パーソンへ回収されやすいものと思われる。作為に分類したものは、配信や動画にのせることを選択できるため、つくりものであると疑うことができてしまう。
しかし、この分類は厳密にするのがなかなか難しい。たとえば神楽めあは、ある配信のなかで、豪快で汚いくしゃみをしたあと、「今のなし」と言って可愛いくしゃみをやり直そうとしている(キャラクタの画像と想像的パーソンの解離をどこまでも広げてしまう、神楽めあの特徴がよく出ている)。VTuber側がやろうと思えば、上記の区分は無効にできてしまう面がある。
とはいえ、想像的パーソンが作り上げられる具体的なプロセスを追跡するうえで、上記の分類は無駄ではないだろう。また、上記の例は筆者が考え付いたものにとどまっているが、この他にも想像的パーソンを作り出すための材料は考えうる。

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【9】まとめ①:パーソンを鵜呑みにするファン/パーソンを疑うアンチ

以上述べてきたことを「ファン」と「アンチ」という面から単純化してみよう。素朴なVTuberのファンは、3層理論やVE理論の範疇に含まれ、VTuberを信頼し支援する。それに対して、VTuberのアンチはその信頼の成立する構造に対して「いちゃもん」を付け、攻撃する。たとえば、「お前の信じている想像的パーソンは、実際の物理的パーソンとは似て非なるものだぞ。お前はそんな嘘つきに金を捧げているのか?」云々。
次の例を考えてみよう。配信者が悩みをぶちまける「お気持ち配信」は、パーソンの切実な内面吐露であるだけでなく、立派なパフォーマンスである。なぜなら「お気持ち」は多くの場合、「言わなくても良かったこと」だからである。たとえば、あるVTuberが「経済的に苦しくて、活動が難しい」という言葉を口にしたとする。素朴に受けとれば、言葉通りの事実を信じるかもしれない(「かわいそうに。支援してあげなきゃ」等)。しかし穿った考え方をすれば、「こいつは金をせびってないか?」と疑うこともできる。
以上の例は、エクリヲ論文で下記のように想定されているものを誇張したものである。

「第三に、悩みと目標について。VTuberの心情吐露や悩みは、そのつどリアルタイムに伝達され、鑑賞者は、それにすばやく反応することで、ペルソナの向こう側にいるパーソンが抱いているであろう心的状態をリアルタイムに想像し、その時点の実感を伴った理解を行うことで、悩みの共感を行う。」(エクリヲ、3-2)

このように、想像的パーソンが想定されているが、パーソン的な要素が真実であるかは考慮されていない。

結局、「ファン」は配信者の言葉を素直に受けとる必要があり(想像的パーソンを鵜呑みにし)、「アンチ」は「言外の意味」に固執し「言葉狩り」へ至る(想像的パーソンを疑う/物理的パーソンに接近しようとする)。配信者の言葉をどう受け止めるかによって、ファンとアンチが別れてしまう。
むろん、こうした単純な2分法はファンとアンチの溝を不必要に深める可能性があり、注意が必要である。実際に視聴者に起こっていることはより複雑である。たとえば筆者のように、アンチの論理を仮に再構成できる人物でも、VTuberのファンでいることはできる(信じることはできる)。また、アンチは「反転アンチ」という言葉があるように、元々ファンであった人物が(勝手に)裏切られ、アンチになるということさえある。ファンもアンチも完全に単純化できないのである。
(*上記の問題があからさまに噴出したのは、アイドル部における騒動の例であろう。彼女たちはプライバシーに含まれる箇所について明言することができず、十分な問題の解明が成されないまま物別れになった。その結果、どのライバーを信じるか否かでファンが分裂してしまった感がある。)

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【10】まとめ②:疑念と信頼

以上述べてきたことをまとめると、次の仮説が考えられる:≪信頼関係によって成立する3層理論・VE理論の世界の裏側には、想像的パーソンに対する疑念がある。その疑念が払拭され、信頼に足るものになったときに、3層理論・VE理論はより強固なものになる≫。
先に述べたように、「メディアペルソナにおけるパーソンは本物ではないから、どんな手を使っても実物と会わなければならない」は、行為に移せば犯罪である。また、「配信ではこう言ってはいても、ハラの底では何を考えているかわからない」と考えていては、相手を支援することなどできない。こうした壁(疑念)を乗り越え、信頼関係を形成することで、3層理論・VE理論はより強いものになる。
逆に考えれば、VTuberを作る人物(チーム)は、パーソンという道具を使い、いかに信頼を形成するかを軸に戦略を練ることが可能になる。しかもそれは、わざとらしくあってはならない(自然である必要がある)。このとき、VTuberというコンテンツはリアリズムを重視する演劇(たとえば、自然主義の演劇)に接近する。

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【11】その他:書けなかったことの箇条書き

・ナンバ氏の理論は「声優」について当てはめてみる必要があるだろう。

・ナンバ氏の理論では、VTuberがひとりで活動しているか、チームで活動しているかという区別がなされていない。また、そのチームがどれくらいの規模であるかと、表現の内容は大きく変わってくるだろう。チームが大きくなればなるほど、パーソナルな要素は後退するかもしれない。

・ナンバ氏の論文の理論的に弱い点は、パーソンに寄りかかりすぎている点である。たとえば、海外のVTuberファンは必ずしも深いコンテクストを理解しているわけではないが、VTuberを楽しんでいる。以下のTwitterアカウントはその例である。

*Out Of Contexts Virtual Youtubers
https://twitter.com/OutofVTubers

ただし、最近はホロライブENが始動したことによって、英語圏の範囲であればコンテクストを自然に理解できるようになってきている。
(*パーソン情報は重要であり続けるかもしれない。たとえば、「にじさんじ台北」や「にじさんじ上海」が人気を得なかった理由として、言語的な壁があったのでは、と筆者は思う。それに対して「にじさんじID」では、Hana Macciaという稀有な人物(JP・EN・IDのトリリンガル)の存在が、活躍の大きな要因である考えている。)
こうした、さらにキャラクタとしての見方が縮小していきそうな状況では、キャラクタの意義を見出だす理論が必要とされるだろう。なぜならパーソンとしての見方だけで良いのなら、VTuberである必要などないのだから。
(**おめがシスターズや、ぽんぽこ/ピーナッツくんのように、キャラクタの特性を生かした表現は行われており、キャラクタとパーソンが渾然一体となった状態に注目した理論を、少なくとも筆者は求めているし、考えていきたい。)