★「VTuberと破滅願望」:郡道美玲についての補足

・以前書いた、郡道美玲に関する記事は、どうやら現在でも読まれ続けているようで、当ブログの注目記事1位に居座り続けている。

https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/09/03/012913

今回は、この記事に対してコメントをいただいたので(相当前に。遅れてすみません)、応答をしつつ、記事の更なる明確化を計りたい。この記事のように、読者を得ているからこそ、誤解もありそうなものである。そうしたメッセージの誤配について、筆者は放置するのではなく、できるだけ明確化して答えたい。そういう意思表示のために書く。

(註:上記のように息巻いているが、長期間放置していたら色々面倒になったので、この記事はスケッチ程度にとどまっている。明確化など微塵もできておらず、誠に申し訳ない。)


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 id:mmm143

郡道は3月以降からコロナの影響で給与が発生しない状況になったというツィートをしている。記事に取り上げられてる配信での発言も「コロナで仕事がない」状況下での話なので、「いまは」やってないと理解するのが良いかと。
https://twitter.com/g9v9g_mirei/status/1234125973580206080
https://twitter.com/g9v9g_mirei/status/1234354917269069824


「郡道は本当は教師じゃなかった!」派が居てもいいとは思うが、その配信の発言を根拠にするのは違うかな。

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・まずは大枠から応答していこう。
筆者は、上記の記事において、郡道美玲の「物理的パーソン」について述べた訳ではない。つまり、筆者は現実の世界に生きる人物について述べたのではなく、郡道美玲というコンテンツの一部である(リスナーが勝手に想像する)「想像的パーソン」について述べたのである。
mmm143氏は、筆者の立場を≪「郡道は本当は教師じゃなかった!」派≫と要約しているが、それは筆者の立場ではない。筆者は郡道美玲が、本当に(現実世界において)教師であるかどうか、については興味がない。あくまで前回の文章は、郡道美玲という演劇(コンテンツ)の特徴を述べたまでのことである。
つまり、この記事は「郡道美玲は、本当は教師じゃないのに、教師だと嘘をついていた!」と糾弾する記事ではない。VTuberという特殊な演劇において、舞台の上で、自身の役柄を否定することにどんな意味があるか考察したものである。そのため、現実世界の郡道美玲(いわば彼女の「中の人」「魂」)が実際に教師であったとしても、どのような職業だったとしても、今回の論理は成り立つのである。


・さて、少しずつ詳細を見ていこう。mmm143氏は、コロナの状況や郡道美玲のTwitterからわかる情報を加味すると、郡道美玲は「いま(そのとき)」教師でなかった、と言っているのであって、ずっと教師ではなかった、と言っているのではない、と主張していると筆者は解釈した。

念のため確認しておくと、すでに述べた通り、筆者の関心は想像的パーソンにあり、現実世界がどうなっているかはどうでもよい。

また、mmm143氏は、筆者の記事の結論を華麗にスルーしている(論点をずらしている、と解釈できる)。
あくまで筆者が述べたかったことは、郡道美玲が自らの役柄を否定することによって、自らのパーソナルな要素に注目させ、その結果としてコンテンツが外部に対して閉じる可能性、である。郡道美玲が現実世界において教師であるかどうか(教師ではない!)、ではない。
ここでは、さらに別の言い方でこの主張をパラフレーズしておこう。郡道美玲のリスナーは、郡道美玲に「教師」というキャラクターを否定されて戸惑うというよりも、キャラクターの否定によって、想像的パーソンに注目して良いのだ、と再確認している。これで安心してパーソンに注目し、キャラクターのことなど考えなくてよい。演劇が正しく行われているかなど、考えなくてよい。こうした考えがエスカレートすれば、自然と「全肯定」=コンテンツの閉じ、に至る。


(註:ここで、該当箇所の書き起こしをしようと思ったが、萎えたのでやめる。筆者が述べようと思ったのは以下の論点である。
・「教師ではない」ではなく、「いまは教師ではない」または「いまは休講中である」などと言えば良い
・年齢など、他の設定もあわせて否定している
以上の理由から、筆者はコロナという文脈をもって郡道美玲の発言を限定化することは難しい、と考える。
……と書こうと思っていたが、まあどうでもいいや、となったのでやめる。)


・コンテンツの収集が足りなかったことは反省するべきだろう。この配信だけを根拠にするのではなく、Twitterでの発言を含めた彼女の言動全体から考えるべきであった。彼女の言動のあまりに小さい一部分を拡大しすぎたことは間違いない。
(ただし、元の記事で「これは郡道美玲というコンテンツの一部分でしかない」という強調は数回行っている。)
筆者は上記の指摘をうけて、今回の郡道美玲について言えることは、さらに限定的であると修正する。
(**「神は細部に宿る」などと言いたいところだが、この言葉は全体の俯瞰が済んでからの話だと勝手に解釈しなおす。)


・これでコメントには応答し終えたが、今回このことを考え直し、また別のアイデアが浮かんできた。それを以下に素描する。

今回の事例は、演劇の比喩を用いて単純化すれば、たとえば教師役のAさん(本業は事務員)が、すでに演劇が上演されているのに、舞台上で急に「わたしは教師ではない」と言い出した、というケースとして想定できる。
このとき「わたしは教師ではない」という言葉は、≪①演劇における役柄を否定している≫のか≪②現実世界における事実を述べている≫のか、判別できない。むしろ、両義的な発言ととるべきだろう。
前回の文章において、筆者はとくに考えることもなく①の解釈をとった。しかし、上記のアイデアがなかったために、そのことを明確に述べることができなかった。その結果、②の解釈をしていた方(たとえば、mmm143氏)の指摘(解釈)が生まれたのである。②は元の発言に最初から組み込まれた意味であって、②の解釈が生まれることは不思議ではない。①と②の解釈は両立する。


・このことにどのような問題があるか。

このVTuberの発言の両義性は、ナンバ氏の3層理論の眼目(目的)のひとつを否定するものである。つまり、理論に期待されている機能のひとつに、「どの階層に向けての評価か」を明確にできる、というものがあったわけだが、否定されている。曖昧さが明確になっている、つまり「どのような両義性か」が可視化された点で評価できるが、あまりに楽観的な見方はできない、という限定ができるだろう。


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・この記事の執筆は1ヶ月程度放置されていたが、以下の切り抜きを視聴したために存在を思いだし、現在、このように、補足の補足を書き始めた。

https://nico.ms/sm37834669

この切り抜きは以下の配信から作成されたものである(23:50~27:12辺り)。

・2020/11/16
https://youtu.be/7-nTYpurIqw

この切り抜きに関しては、前回の筆者の主張が例証されている感じで驚いた、以外にあまり感想はない。たとえば「ファシズム」云々も、好きなだけやればいいと思う(ただ、国際関係論的に言っても苦しいと思う。ファシズム国家と付き合うこと=リスク、という認識が広まれば、ファシズム国家はさらに過激な行動に出て、最終的に滅亡すること、歴史が教えてくれている)。「VTuberはいずれ廃れる」という言葉も、前回の筆者の分析における「コミュニティの閉じと衰退」を考えれば、それほど不思議な認識ではない(郡道美玲は、VTuberはいずれ廃れるという認識を持っているからこそ、演劇を否定しコミュニティを閉じる、という見方もできる)。


・ここからは、郡道美玲というコンテンツについて思い付いたアイデアを「優越の笑い」「破滅願望」というキーワードを軸に、書き付けてみる。

いちいち動画は貼らないが、先日の御伽原江良と郡道美玲のコラボにおいて、罰ゲームの土下座を御伽原に無理やり強要する郡道、という切り抜きがあった。
この一幕は、「優越の笑い」のすれ違いとして認識できる。郡道は、罰ゲームのくだりのなかで、ひとの土下座を見るのが大好き、といった発言をしてから、上記の行動に及んだ。これは、観客にも「嘲笑」を求めている発言と読み取れる。いまから「優越の笑い」をします、人をバカにしたり価値を下げることで笑いを取るので、笑ってくださいね、という合図である。しかし、結果的には、優越の笑いは上手く起こらず、郡道が御伽原の上にのっかり「じゃれ合う」形になり、彼女たちは笑い得たが(じゃれ合いは幼児や動物に共通の笑いである)、観客は(一緒になって笑う以外は)笑えなかった。これは、昨今「優越の笑い」への厳しい視線があることを無視した結果である。
むしろ、たとえば郡道が「ひとの土下座を見るのが大好き」と言ったあとに、自分がへまをして、土下座している自分を見る羽目になる、という展開の方が(ベーシック過ぎるが)自然に笑える。
先のファシズムという下りもそうだし、モノマネに歯向かうやつはブロックしていく(と面白い)という発想も、自分が優越の笑いで笑いたい、というスタンスがにじみ出ている。こういう「フリ」があるからこそ、いわゆる「郡虐」のギャップが発生するのだろうが、本人が自覚的かどうかはよくわからない。つまり、「フリ」ではなく、本当に面白いと思ってるのかもしれない、という疑念が払拭できない。
なんにせよ、彼女が「自分がみんなを笑わせる」のではなく、「みんなが自分を笑わせてくれる(それ以外のやつは面白くない)」という内向きの思考であることだけは、よくわかるのではないか。いわゆる「内輪ネタで盛り上がる」に近い。


・以上の考え方は「破滅願望」と名付けることもできるだろう。たとえば、VTuberがいずれ廃れるという思想、コミュニティの閉じと衰退の実践も、滅亡への願望のように思えてくる。
破滅の規模は、当然ながら、破滅するものの規模が大きいほど大きい。だからこそ郡道は、無理して自分を大きく見せようとするのではないか。
また破滅とは、虐待のことではなく、一切がなくなることである。つまり「郡虐」は彼女の欲望に合致しない。彼女が望むのは、立場を入れ換えながら、無限に繰り返されるSMプレイ(演劇)ではなく、一切の終わりである。
そして破滅は、ファンと共に行われるのがおそらく美しい(とされる)。郡道美玲はファンが居なくては成り立たないのだから、終わりのときもファンが共にある。


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「寂しくなるのはなんでかな
泣きたくなるのはなんでかな
消えたいと思ったら
君がそばに居てくれるから?
(離れないでいて 離れないでいて……)」
ジグ『レントリリー』