◆配信者と「自重のお願い」

*以下の論考は、以下のツイートによって喚起されたツイートに補足したもの。ハッキリ言って私の論点は最初から下記2ツイートとずれているので注意。
https://twitter.com/hololivetv/status/1255769641982410752
https://twitter.com/shirakamifubuki/status/1256068880134365184

 

★要約:視聴者は配信者とともに、対等な立場でコンテンツを作れると考えているが、あるきっかけで不平等が発露することによって、その考えが否定される。

 

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・「あへあへ」については議論をすることが許されておらず、一方的な禁止が言い渡される
⇒1.議論のプラットフォームの有無。このことに関して配信をする、となれば議論の余地がある。その配信が台本を読み上げる類いのものなら、意味はない。
2.禁止の強度。fbkの言い方はそれほど強いものではない。「一方的な禁止」は言い過ぎだろう。しかし上記の1を実施しなければ、一方的にも思えるだろう。
3.「何が問題なのか」がはっきりしていない。具体性がない報告のため、視聴者側も何を禁止しているのかわからない。
(*「主題がはっきりしていない会議に意味はない」という指摘。彼らは「自粛」「自重」を促している。権力を内面化することを求められている。「ご理解ください」「お願いいたします」。一方的な、非対称的な、不平等な方法。)

 

・配信者には不快を一方的に排除する権力がある(そのようなプラットフォームもある)
⇒1.そもそも、配信者はコメントを選ぶ権利がある。ほぼすべてのコメントが公開されているなかで、コメントを選択して読むことが要請される。
(*視聴者が少ない配信者にこの問題は起こり得ない。ほぼすべてのコメントを読むため。IRIAMで視聴者数2桁の配信者を参照せよ。このとき、いわば「直接民主主義」的な形になっている。)
2.ブロックやミュート。これらはボタンひとつで行われる操作である。むろんブロックやミュートするのに議論など必要はない。
(*もし議論をしても泥沼化するように思える。「議論」はどのようにして可能になるのか?ハーバーマス的な問いだが、そもそも議論の枠組みを押し付けるのはオカシイ、というようなフーコー的な反論もありえる。)
(**YouTubeにも利用者をBANする権利がある。このことの検証は利用規約を確認する必要がある。ただし、YouTuberはYouTube側と議論してBANを解除される可能性がある。ここには対象性がある。「配信者と視聴者には契約関係がない」!)

 

・禁止は一方的であり、急に宗教的な(あるいは独裁的な)命令になる(仮言命法であるだけマシだろうか?)。ここには非対称性がある。
⇒1.これは言い過ぎではある。禁止の強度、権力の向きにはバリエーションがある。また、禁止には理由がある。理由に正当性があれば、一方的な禁止も認められるかもしれない。
(*しかし理由について細かく問うことは、あまり期待できない相談ではある。)
2.宗教的な命令と、独裁的な命令は区別されるべきだろう。今の段階では考察を控える(私の知識が足りないため)。

 

・「本来的」には対象性が期待される場であったのではないか、という幻想が相対化される
⇒1.「配信者をコントロールできるかもしれない」という視聴者側の欲望。この欲望は以上述べてきたような非対象性の発露によって否定される(精神分析的に言えば、抑圧される。抑圧されたものはどこに向かうのか?ひとつの答えは、配信者を匿名掲示板で叩く、という行動だろうか)。