★「挑発する吸血鬼と閉じていく舞台」:赤月ゆにと「VTuber」

★要約(本文:約10000字)
*赤月ゆにの動画に対して、筆者は違和感を抱いた。その違和感とは、赤月ゆにが「VTuber」などの用語の曖昧さを軽視して、赤月ゆにとその「眷族」だけの≪決まりごと≫を言い渡したために生じたものだった。こうした挑発的な内容の表現は、短期的なプラスになり、ある程度評価できるが、長期的にはマイナスになりうるものである。筆者は、赤月ゆにがよりアクティブに外部と交わることを望む。

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・本記事は、赤月ゆにが先日投稿した動画について書いたものである。元動画は下記参照。筆者はこの動画の内容に「違和感」を抱き、その感じを言語化するために本稿を書き始めることにした。
https://youtu.be/QXKE21Ek0IE

・以下の記述には「赤月ゆに」が多数登場するが、差し当たり今回の記事では「赤月ゆに」=「赤月ゆにを構成するチーム」という言い換えを暗にしている。今回の動画は「赤月ゆにチーム全体の意見」として捉えた方が、ニュートラルに考えられると筆者は感じた。
(しかし、筆者個人の所感を述べるのなら、今回の動画の内容は偏りや混乱があり、演者・脚本・演出のコンセンサスが取れていたとはあまり思えない。この但し書きは、特に演者と脚本の意図がずれている場合を想定している。)
また、修正が非常に大変なため「VTuber」表記は揃えていない。

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【1-1】動画の内容
さて、今回の動画は非常に複雑である。動画の内容をいったんまとめ、ひとつひとつ考えてみる。
星井美希の生配信があり、評判を調べようとすると「VTuber」の文字が出る。そして「星井美希VTuberと呼ぶな」という意見が出てくる。
②赤月ゆにはVtuberを自称してないし、「リアル」である。なぜなら彼女は文京区に住み、ゴミだしをするし、挨拶をするし、文京区の女性教師の心配をするし、風呂の掃除をするからだ。
③「VTuber」は「生主」「歌い手」「ご当地アイドル」「地下アイドル」と同じニュアンスの言葉になっている。「Vtuberって呼ぶの、やめないか?」

【1-2】星井美希と「VTuber
①に関しては、別の記事で詳細を書こうと思い準備中である。差し当たり結論だけ書くと、≪星井美希はそのとき「VTuber」であったが、それは彼女の同一性になんら影響を与えない≫。
また、赤月ゆには星井美希SHOWROOMでの配信を行ったことから、彼女は「VTuber」ではないと述べているが、SHOWROOMでの配信と「VTuber」であることの用件とは全く関係がない(たとえば、筆者が清掃員として様々なビルへ出張しても、清掃員であり続けるように。あるビルに行ったら清掃員でなくなる、という例は不自然であろう)。

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【2】赤月ゆには「VTuber」ではない、か?

【2-1】VTuber存在論
赤月ゆには、「VTuber」を自称していない。また、自身が「VTuber」であるということも否定している。では、赤月ゆには「VTuber」ではないのだろうか?
筆者は、VTuber存在論(≒何をもって「VTuber」は存在するのか、という議論)に非常に興味がある(過去にも似たような記事を書いたこともある)。しかし、論理的に精緻な道具立てを持っていないため、ここで立証するのは難しい。
ここでは差し当たり、経験的かつ直感的に考えたものを記述していく。哲学の方法論に詳しい方や、様々な文化における類似例を知る方による、忌憚なきご意見を頂戴できれば幸いである。また、ここでの議論は後日、別記事にて詳しく書く予定である。

【2-2】VTuber存在論
さて筆者は、「VTuber」が存在するために、以下の5つの条件が必要であると考えている。

①2Dあるいは3Dソフトで描写されたキャラクターの使用
モーションキャプチャーの使用
③演劇的な主体の存在
④表現媒体を移動でき、キャラクターの同一性が崩れないという事実
⑤観客とのコンセンサスの成立

①については、特に言うことはないだろう。赤月ゆには、切れば血の出る生身の肉体ではなく、なんらかのソフトで生成されたキャラクターである。
また、②についても補足することは特にない。赤月ゆには、いわゆる「手付け」ではなく、現実の人間の動きを写し取ったモーションキャプチャーによって動く。
③は、赤月ゆにというキャラクター(役柄)と、キャラクターを演じる役者と、この演劇を成り立たせるための様々な物的要素を指している(監督、台本、編集者、など)。赤月ゆに(というコンテンツ)は、演劇的でないというほうが難しい例である(「役柄・RPの否定」など、限りなくグレーの場合がない)。(*この③に関しては、他のコンテンツにも当てはまるため、さらに細分化して考える必要があるだろう。別記事にて詳述する予定。)
④は、赤月ゆにがYouTubeにもTwitterにも登場するが、それらがキャラクターとしての同一性を持つことを指す。こうした同一性があるからこそ、キャラクターのブランドイメージを利用して、企業案件などを受けることができる。
⑤は、赤月ゆにを「VTuber」として認識することに、大多数の人々は自然に感じる、ということを指す。また、いったん「VTuber」として認識されているため、仮に赤月ゆにが「着ぐるみ」で登場したとしても、観客が「VTuber」としての認識を改めることはない、ということも含意している。
このように、赤月ゆにが「VTuber」であることは明白である。

【2-3】≪生主orYouTuber≫は本質的でない
上記の条件と比較して、赤月ゆには、コンテンツの内容や性質、つまり「生主的」か「YouTuber的」か、という分類方法を想定している。しかし、それらの要素/形式はVTuberに適用可能ではあれ、VTuberの存在にとって重要なことではない(両者は③に含まれると筆者は考える)。筆者は、①~②の形式的な要素、③の演劇的な要素、④~⑤の社会的な要素がそれぞれ満たされなければ、VTuberは存在できないのでは、と考えている。
ここからさらに論を拡げたいところだが、非常に長くなると思うので、後日別稿にまとめる。(*たとえば、演劇が成立するためにはコンセンサスが必要であるため、⑤は③に吸収される、等)
(*補足:赤月ゆにが用いた分類法は、比喩的に言えば、演劇形式の分類法である。ラシーヌの古典劇とベケットの現代劇は、大きくタイプが異なるが、同じ演劇である。)

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【3】赤月ゆには「リアル」である、か?

【3-1】「現実世界にいる」という「リアル」
赤月ゆにが連呼せざるを得なかった「リアル」とは、≪どの≫リアルだろうか?この動画で使われた「リアル」という言葉について、まずは整理してみよう。
まず考えられるものとして、「リアル」=≪赤月ゆには現実世界に存在する≫、という解釈があるだろう。
筆者はこの解釈はいちおう妥当だと考える。つまり、キャラクターとしての赤月ゆにを具現化したものが、現実世界に存在する、という解釈である。たとえば、赤月ゆにのねんどろいどが現実世界に存在することを根拠として、赤月ゆにが現実世界に存在する、と結論しても良いだろう。また、私がフィギュア製作を極め、精巧な赤月ゆに等身大フィギュアを作ったとする。このとき、赤月ゆには現実世界に存在すると言って良い。同様にして、二次創作で描かれた漫画の中の赤月ゆにも、VTuberというコンテンツとしての赤月ゆにも、現実世界に存在する。

【3-2】「現実世界に生きている」という「リアル」
しかし、先の「リアル」の解釈を≪現実世界に生きている≫まで広げると、上記の結論を修正することになる。まず、キャラクターとしての赤月ゆには、当然カテゴリー(普遍者。あるいは役柄)であるから生きてはいない。また、個物としての、ひとつひとつの赤月ゆにも、人工物であるから、生きてはいない。このように、「生きている」という状態にまで解釈の範囲を広げると、赤月ゆには「リアル」ではない、といえる。
それでも、ひとつひとつの赤月ゆにを「生きている」と言いたくなる。このとき言えるのは、カテゴリーや人工物を「生きている」と考えるには、≪赤月ゆには現実世界に生きている≫という「信念」が必要になる、ということだろう(赤月ゆに=幻想説)。(*このことは、いわゆる「擬人化」「アニミズム」などと似ており、比較できるだろう。たとえば、フィギュアがある日突然意思を持って喋り出す、などの想像力である。)
つまり、≪赤月ゆにが現実世界に生きている≫とは、観客の信念や幻想の度合いによって変わるものである。(**この幻想を作り出すために演劇的な装置(たとえば、役柄と俳優という関係性、理想的な3D空間……など)がある。)ここまで「リアル」を拡張して考えれば、≪赤月ゆには「リアル」である≫ということは自明でないことがわかる。

【3-3】「実在感」としての「リアル」
しかし「リアル」という言葉には、まだ掘り下げるべき要素が残っている。たとえば「リアル」とは、「真実らしさ」だろうか、「自然さ」だろうか、「実在感」だろうか。(***これらは、演劇理論における「リアリズム」において、各時代に議論になったキーワードである。)
「真実らしさ」だとすれば、そこには「事実」がなければならない。しかし残念ながら、文京区を探し回っても赤月ゆにを見付けることはできない。「赤月ゆにの中の人」を見付けることはできても、キャラクターとしての「赤月ゆに」は現実世界では見付からない。あるいは、痕跡としての「赤月ゆに」を見付けることができても、痕跡のオリジナルである「赤月ゆに」には到達できない。
「自然さ」だとすれば、そこに「想像力で補わなければならない隙間(不自然さ)」はあってはならない。しかし、赤月ゆにの使用している部屋は明らかに現実のそれとは異なっている。また、赤月ゆにというコンテンツには超自然的要素が多すぎる(吸血鬼、しゃべるコウモリ、等)。
では、差し当たり「リアル」とは「実在感」であると言えるだろう。赤月ゆにの様々な痕跡を辿るとき、観客は「赤月ゆに」にはたどり着けないが、その「生々しさ」を感じたりするだろう。バイノーラルマイクによって、より距離感覚が近くなった赤月ゆにの声に、「そこにありありといる感じ」を受けるかもしれない。
しかし、この「実在感」という観点は、人によっても環境によっても変わりやすい見方である。
すなわち、この「実在感」という観点で考えれば、≪赤月ゆには「リアル」である≫という主張は、≪人や環境によって変わる≫としか言えない。そして、この観点はコンテンツとしての評価軸として機能していると筆者は考える。

【3-4】「実在感」を表現できているか?
赤月ゆには他にも、自身が「リアル」であることの証明のため、自身の文京区での生活エピソードを話す。
では、この赤月ゆにのエピソードトークを、「実在感」という基準で考えてみるとどうだろうか。筆者は、あまり「実在感」の表現に成功していないと考える。なぜならば、赤月ゆには文京区と自身の関係性について、語っているのみで、示せてはいないからである。
たとえば筆者がいま、「昨日A市のコンビニBに行ったんだよね」と報告することもできる。しかし、それは端的に言って信用ならない。なぜならば、筆者がインターネットでA市の建物などについて調べて、上記の発言をした可能性があるからだ。この場合、仮に、筆者が自分の顔を撮影しながら、A市のコンビニBに行く動画を撮影したならば、信用に足る証言になりうるだろう。
この記述は、先日ぽんぽこが投稿した以下の動画を踏まえている。
https://youtu.be/alCRCiLHFOo
この動画は、仕組みを推測すると、撮影した旅動画に、音声に合わせて口パクしたアバターの動画を合成したものだろう。観客の想像力を喚起することで、「旅に行きました」という報告ではなく、≪VTuberの旅動画≫というコンテンツとして成立していると筆者は考える。
赤月ゆにで言うならば、文京区の文化施設に実際に赴き、紹介するなどの動画があれば、より「リアル」に感じられる(「実在感」がある)。このとき、赤月ゆにの声に応じた身振りが加えられると、さらに「実在感」が高まるだろう。
(*補足:≪現実世界に生きている≫ということと「実在感」の繋がりは明白である。後者の感じが強まることで、前者の確信に至るという言い方も可能だろう。)

【3-5】≪決まりごと≫としての「リアル」
さて、冒頭の問い(「赤月ゆには「リアル」である、か?」)には、「存在」という最低限のラインでは「リアル」と言えるものの、「生きている」とか「実在感」のレベルでは、明白に「リアル」と言えない、という両義的な答えを提案できる。
しかし動画内の赤月ゆには、ここまで検討してきた「リアル」を特に明らかにせず、「リアルなゆに/リアルなひまり/リアルな吸血鬼/リアルな文京区/リアルな眷族/ということで/やっていこう/よろしく」と動画を結んでいる。この言葉は、すべてが「リアル」であるという、特に論理的ではない≪決まりごと≫だけを、視聴者に押し付ける形となっている。つまり、≪赤月ゆには「リアル」である≫という、あまり明白でない結論を提示し、それを飲み込めない人物とは「やっていけない」ということだろう。
このように赤月ゆには、論理的ではない≪決まりごと≫を守れる視聴者を選別しているように思える。それよりむしろ、そうではない視聴者への挑発となっている(守れる視聴者にとっては、特に何の変哲もない動画だろう)。実際、筆者はこの挑発に乗った(違和感を抱いた)結果、冗長な文章をものすることとなってしまっている。また今回の動画は、赤月ゆにの動画のなかでも、再生数が多い方ではあり(ただし、特別多いわけでもない)、挑発としての機能をある程度果たしている。
ここまで解釈を広げてみると、今回の動画の目的は2つあったことになる。つまり、①「リアル」に関する≪決まりごと≫を提示する、そして、②≪決まりごと≫に従わない視聴者を挑発する。この2点の目的は概ね達成されているように思える。

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【4】「VTuber」という呼称について

【4-1】「VTuber」と言い換え表現
では、③について考えてみよう。
赤月ゆには、「野球もラクロスもサッカーも全部まとめて球転がしという分類」という言い方で、「Vtuber」という言葉の不自然さを示そうとしている。たしかに我々は日常生活において、この3競技のことを「球技」というカテゴリーで呼ぶのだが、ここでゆには敢えて「球転がし」という不自然な言い方を選んでいる。
一応指摘しておくと、「球転がし」と「球技」は同じカテゴリーを指しており、単純な言い換え表現に過ぎない。たとえば我々は金星のことを、時間や見え方によって「明けの明星」や「宵の明星」と言い分ける。このとき我々は読み方を変えることで、同じ対象の時間や見え方も合わせて表現している。
たとえば「Vtuber」にも、「絵畜生」という言い方があり、VTuberを嫌う層の用いる蔑称である。このように、呼称は使用者の認識が現れるものであるが、指されているもの(の本質)が変化することはない。
以上のことは、動画内で用いられたスイカの喩えについても同様である。

【4-2】「VTuber」という言葉のニュアンス
さて、赤月ゆには「VTuber」という呼称に、どのようなニュアンスを込めているだろうか。
赤月ゆには、クジラックス『歌い手のバラッド』作中にある「歌い手」の、かなり悪意のあるコメントを引用している。この引用は唐突であり、何を言わんとしているのか不明瞭だが、要するに「歌手」ではなく「歌い手」という言い換えによって、引用部で述べられたようなニュアンスが付与されるという主張と、とりあえずは解釈できる。
ここから赤月ゆには、フェアな目線に立っていないことがわかる。つまり、赤月ゆには「VTuber」というカテゴリーになんらかの悪しきイメージを持っており、恣意的な引用によって悪しきイメージを固定化しようと試みている。
この論法は「性急な一般化」の一種でもある。赤月ゆにがVTuberとして挙げる例は2例しかなく、その良し悪しについては述べられない(あえて言えば、「生主」系VTuberへのやんわりした敵意を読み取ることもできる)。VTuberは、それら2例で済むような単純なコンテンツではない。赤月ゆには自分にとって必要な例だけを、恣意的に選び、性急に「VTuber」というカテゴリーへ一般化してしまっている。
フェアな議論を求めるならば、赤月ゆににとって肯定的な具体例を挙げて欲しいところだ(もしかしたら、過去の配信や動画で述べているかも知れない。それならなぜ、今回の動画で言及しなかったのか、という疑問は残るが)。
たしかに「VTuber」界隈で、問題のある個人や団体が出現したり、不祥事が取り上げられることはある。しかし、航空事故における、全体における割合の少なさとインパクトの関係に似て、VTuber活動の全体に対する事件の比率は小さいものである。もちろんだからと言って、その小さな問題を放置したり隠蔽したりするのではなく、問題を公開し参加者同士で言葉を重ねなければならない。とはいえ、航空事故ばかりを取り上げ、航空のメリットを取り上げないことは、全く片手落ちと言わざるを得ないのである。

【4-3】「VTuber」はむしろ比較的ニュートラルな呼称である
筆者個人の感想としては、現時点における「VTuber」という呼称は、他の呼称に比べてニュートラルであると思う。意味としては、それがフィクションであること、YouTubeで活動する場合が多いことなどを含んでいるし、歴史としても、キズナアイが最初に使い出した呼称の短縮形であることを示しており、ひどく偏っているというものでもない。
VTuber」に代わる新たな呼称として「ヴァーチャルキャラクター」、短く言って「VC」などと言うこともできるだろう。しかし、今から「VCが≪正しい≫呼称です!」と言ったところで、使用する人は少ないと思う(これは筆者の直感に過ぎない)。むしろよりニュートラルな呼称は、一種の専門用語として用いられ、一般に流通しない可能性が高いだろう。
また仮に、この新しい呼称を赤月ゆにへ提供したとしても、拒否されるだけだろう。なぜなら彼女は「リアルな吸血鬼」だから。

【4-4】赤月ゆにの目的とは何か?
さて、上記の内容を踏まえた上で、今回の動画の目的について考察していこう。
動画内で述べられているように、彼女が「Vtuber」という呼称を忌避するのは、「VTuberだから**せよ」のような、「VTuber」によって導かれてくる要素やイメージを忌避してのことだろう。要するに「VTuber」と名乗ることになんのメリットもない、と判断したのだと思われる。むしろ「VTuber」と名乗り、何かいわれのないイメージを押し付けられるくらいだったら、そんな呼称など採用しないということだ。
筆者の素朴な疑問としては、なぜ「VTuberだから**せよ」というようなメッセージを真に受けてしまっているのだろう、というものがある。先述した通り、VTuberは非常に多様であり、VTuberという一般項から演繹的に何かを導くのは難しい。そのメッセージは論理的に問題があり、真に受ける必要などないのだ。(**こうした疑念からも、赤月ゆにのVTuberに対する悪いイメージを推察できる。)
むしろ赤月ゆには、ひとつの演劇(茶番劇)として≪真に受ける演技≫をしているのだろう、と筆者は考えている。つまり、「VTuber」と呼ばれることにメリットがない、という主張は表向きのものに過ぎない。では赤月ゆには、論理的には成功していない、自分とVTuberを切り離す言動に、どうしてこだわっているのだろうか。
ここで、【3】で述べた≪決まりごと≫としての「リアル」に戻ろう。【3】ではその「挑発」としての側面に注目したし、この≪決まりごと≫は部外者を排除する論理としても機能していた。このことと、本章で述べてきた「VTuberと呼ぶな」という≪決まりごと≫は両立しうるし、機能としても「挑発」と「排除」どちらの意味にも解釈できよう。(**たとえば「私をVTuberと呼ぶやつは眷族じゃない」という言い方も可能ではある。しかし流石に、そのような露骨な表現はしていない。)
つまり赤月ゆには、この動画を通して、2つの(論理的ではない)≪決まりごと≫を提示し、その≪決まりごと≫へ違和感をおぼえる視聴者の「排除」と、それらの視聴者への「挑発」を目的としていると思われる。その結果、赤月ゆにと「眷族」の絆はより深まるであろう。(*この≪決まりごと≫を守るからこそ、赤月ゆにの「眷族」である、とすら言える状態になる。)

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【5】まとめ

【5-1】議論のまとめ
さて、今までの議論を軽く振り返ろう。
まず、赤月ゆにの動画に対して、筆者は違和感を抱いた。その違和感の原因は、次のようにまとめることができる。
①赤月ゆには、存在論的に「VTuber」であるのに【2】、「VTuber」であることを否定しているため【4】。
②「リアル」という言葉の曖昧さにこだわらず、≪決まりごと≫としての「リアル」を視聴者に提示し、「選別」と「挑発」を行っているため【3】。
③「VTuber」というカテゴリーに対する悪しきイメージを表明し、「VTuberと呼ぶな」という≪決まりごと≫を提示しているため【4】。
上記の要素をふまえ、今回の動画をかなり意地悪な仕方でまとめると、次のようになる。≪赤月ゆに以外のVTuberは「歌い手」みたいなものだし、そんな「VTuber」と赤月ゆには関係がない。そんな外のどうでも良いことより、赤月ゆにと眷族の≪決まりごと≫だけを大事にしていこうね≫。そして、こうした内容に対する筆者の違和感を一言でまとめると、≪「閉じる」ことへの違和感≫と言える。

【5-2】「VTuber」を延命するために
あまりにも意地悪に過ぎたので、筆者の立場を補足しておこう。筆者は、今回の動画の「挑発」は、演劇としてきちんと機能しており、面白く感じた。コンテンツが「人に何かを考えさせる」機能を持つことは、ブレヒトを引用するまでもなく、重要なことだ。現に筆者は、今回の動画に触発され、今回の記事をせっせと書いているのだから。気持ちが動かされなければ、このような長文など書かないわけで、それほどこの動画には魅力がある。
しかしその反面、この演劇は「選別」の機能もまた果たしている。≪決まりごと≫を守らない視聴者とは「やっていけない」ことを暗示しているからだ。このように選別を行えば、視聴者が限定されていくことは明白であろう。この状態を「閉じる」とか「コンテンツが閉じる」と表現してみたい。要するに、外部性(外部からの意見など)を遮断して、内部性のみでコンテンツをつくる、ということである。
「閉じる」こと自体は問題がない。むしろ人気のあるコンテンツには、この「閉じる」作用が上手くいっているものが多い。しかし、ここに他のコンテンツへの攻撃性が加わると、かなり話は厄介になる。たとえば、≪配信者Aの言ってることが絶対正しいのに、配信者Bは違うことを言っている。コメント欄を荒らして無理やり納得させよう!≫など。このとき、配信者同士の関係が良好であれば、こうしたことは起こりにくい。結局、コンテンツ同士が閉じてしまっているために、このようなことが発生する。
今回の赤月ゆにの動画では、「挑発」の一環として「VTuber」への攻撃がやんわりと試みられている。これは本文で述べた理由(性急な一般化などの論理的問題など)からして、全く容認できない。また、上記のような不要な争いを生む可能性さえ胚胎していると、筆者は感じる。
筆者は、重要なのはプロセスや関係性であると思う。たとえば、赤月ゆにと眷族の間にもそれぞれ物語(絆が形成される過程)があるように、他のVTuberとその視聴者との間にも物語がある。「生主」系VTuberなどに批判的であるのは勝手だが、そこに確かにあるはずのプロセスや関係性に対して、全くリスペクトがない表現は容認しがたいのである。
VTuber」という軛(くびき)や柵(しがらみ)から脱出したいという気持ちはわからないでもない(むしろ表現者としては、既存の枠組みから脱出しようとすることはまことに結構なことであろう)。しかし、ヴァーチャルなキャラクターを用いて演劇をする限り、「VTuber」であることからは逃れられない。ましてや、「VTuber」を非論理的な仕方で攻撃することで、上記の目的は達成できない。むしろ、ひとりひとりの「VTuber」をリスペクトし、「開けた」コンテンツに変えていくべきなのではないだろうか。
筆者は、こうした努力を重ねることで、放っておけば「閉じて」、終わって(衰退して)しまうであろう「VTuber」というジャンルを、なんとか「延命」できればと考えている。そしてそれができるのは、こんなところで駄文を弄している筆者などではなく、ひとりひとりの「VTuber」なのである。