★VTuber批評の機能不全:或る溺死寸前体の呪詛

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Heine Kleine
この世界がそうだよずっと ねえずっと
臭いものに蓋してきたのは
Heine Kleine
皆穴だらけの心を見透かされないように
生き抜いていくしか無いからさ

煮ル果実『ハイネとクライネ』

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【1】はじめに

まず、この文章を読んでいただけてるということ、そのこと自体がとても嬉しい。ありがとうございます。「文章を読まれてうれしい」という気持ちは、絶対に忘れないようにしたい。とはいえ、この文章の非常にネガティブな性質から、読者諸賢は途中で読むのをやめるかもしれない。それでも、一度でも目を通して下さったことが嬉しい。感謝したい。
さて、動機である。この文章は、私のVTuberについて書いた文章が全く読まれなくて(反応されなくて)ムカつく、という全く個人的な感情(怒り、恨み、妬み、悲しみ)に基づいて書かれており、究極的には「お前の人格に難があり、能力が無いから悪いんだろ」という一言で終わる。しかしその言葉(個人因)に反抗し、筆者の文章が読まれない環境因について書いていく。
とはいえ筆者の最近の感情は最悪であり、ルサンチマンで爆発しそうである。というわけで、理論的な文章というよりは、人生が不全に陥った人間の怨恨、恨み節(うらみポエム)としてお付き合いいただければと思う。以下、いちおう文章を節に分けているが、順番に特に意味はない。

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【2】批評の死?

非常に大きな捉え方をすると、いま筆者はあるコンテンツの批評が死ぬという事件に直面している。いやむしろ、この記事によって事件として認知されることを望む。

(*筆者は東浩紀氏に対し、謎にアンビバレントな感情を勝手に持ち続けてきたが、こと批評の延命に関しては素晴らしい仕事をしているという認識に変わった。)

批評は、素人然とした(バカっぽい)問題提起、無理矢理なほどのテコ入れ、端から見れば無謀なパフォーマンス、などによって延命されうる。批評がいのちを保つということは、コンテンツが死なないで済む。筆者の基本的な立場は、VTuberを生き延びさせるために、批評は必要であるという立場である。
筆者は、いまや書き物(批評)もVTuberもいのちの一部である。筆者は、慣れないパフォーマンスで自らのいのちさえも、なんとか繋ごうとしている。

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【3】VTuberから逃走する書き手

有名な書き手は、もう、VTuberについて書かない。数字を持った書き手がVTuberについて文章を書かなくなってきただけでなく、そうした書き手はそもそも注意散漫であり、すでにVTuberに飽きている。
そうした書き手は、VTuber界隈が死のうとも「そうなんだ。あのときは良かったナア」「アア僕の言った通りダ。VTuberはクソだったんダ」などと宣うに違いない。なかには書かなかった後悔をするマシな人物もいるだろうが、どうだろうか。

ただし、そもそも生活の事情としてVTuberについて書きたくても書けない人もなかにはいるだろう(時間がない、VTuberについて書いても金にならない)。それでも優先順位を付けてるではないか、という手厳しいことも言えるが、ここは差し当たりV批評を受容する層や、出版界の感性的貧困/構造的問題のせいにしておこう。

2018年前半、VTuberについて書くだけである程度読まれた状況については、幸いであった。このとき、あるべき批評の順番は逆転し、注目されるからVTuberについて書くということもあり得た。そうした人物が現在VTuberについて書くとは思えない。

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【4】VTuberから逃げ遅れた書き手(筆者)

ちなみに筆者は、無職のバキバキ童貞実家住み(25)であり、時間は潤沢にある。このことから、僕の文章のつまらなさは僕の能力の足りなさに帰属することもできる。

(*こういうクソつまらん自己嫌悪(個人因への帰属)は楽しいので、こういう記述はどんどんやる。しかし本稿では、基本的には環境因に集中する。)

というか、そもそも、にゃるら氏がアニメやゲームについて指摘していることがVTuberについても当てはまっているように思えてくる。筆者は現実に適応できず(無職)、いつまでもVTuberを見ながら暮らしている。そうこうしている間に、周りの友人や、VTuberの元・書き手、出版社は現実に適応していく(別のライフステージへ進んでいく。別の稼ぎ口・別の生き甲斐を見つける)。
すでにVTuberから逃げおおせた書き手は、波に巻き込まれた筆者に、気付くことすらない。筆者は、自業自得ながら、あわれにも、波間にて足掻いている。

(**2018年の末から2020年前半までは、筆者もVTuberについて詳述できる状況ではなかった。なので人のことは言えない。まあ、その期間でさえ、筆者は誰も見やしない文章を細々と書いていたことは事実である。筆者のTwitterやブログを、隈無く、参照のこと。)

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【5】書き手の責任

ユリイカ』に寄稿した人物の何人がいまもVTuberについて書き続けているだろうか。ここでわざわざ名前はあげない。無惨にも、何人かはすでにTwitterの更新すら止まってしまった。それに対して、何人かは今でも精力的に、VTuberについて言葉を費やしている。

VTuberから逃げおおせた書き手は、自分の業績にすでに古くなった文章を勲章のごとく書くのではなく(それらは理論的に更新された様子はない)、なぜ自分がVTuberに興味を持てなくなったか、現在のVTuberの趨勢に追い付けなくなったか詳述すべきだろう。それが、書き手としての誠実な態度である。書き手の責任である。
仮に、もう一度、VTuber批評が盛りあがったとしよう。もう一度、『ユリイカ』が特集を組んだとして、そのときだけ流行に乗って書こうというのは、単純に悪しき考えである。いますでにVTuberに興味を失っている人間が、VTuberが人気になった途端に興味を取り戻すとするなら、それは単純に流されているだけである。もうVTuberに興味を失ったのならば、目の前に積まれた原稿料(たいした額ではないだろうが)を無視し、誠実に辞退すべきだろう。それが彼らにできるだろうか。

まあ、VTuberやYouTuberと同じく、流行にうまく乗ることが書き手の処世術なのかもしれないが、個人的には普通に嫌いである。なぜなら、書き手の責任を果たしていないから。
ここの記述には筆者の怨恨が滲んでいる。こんなことを言い放ち、変なこだわりを持ち続けて、誰にも読まれない文章を量産し、勝手にキレ散らかし、こんな悪文を書いてしまう。救いようがない。しかしおそらく、筆者は、救いようがないバカの極致から突き抜けないといけないのだろう。なのでこうして、足掻いている。
救いようがないバカにすらなれない人物よりは、マシなのだと、溺れながら考える。

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【6】追いにくさ

VTuberについての「包括的な」文章が現れにくいことには、VTuber全体の捉えにくさが関係しているだろう。批評だけでなく、VTuberそのものが追いにくい。
しかし、問題なのはむしろ、すぐに追うことのできるメジャーどころでさえ、なにも書かれない、ということである。

「いやいや筆者よ、ちょっと待て。お前は現在でもnoteに大量のVTuber批評が投稿されていることを、全く恣意的に、無視しているな?」
ちょっといきなり誰か出てきたけど、まあ、質問にはこたえてあげよう。
noteのVTuber批評については、筆者も存在を確認している。そのなかには、おそらく全世界で1万回以上引用されるような、素晴らしき文章もあるだろう。しかし、少なくとも筆者は、noteの投稿されるVTuberについての文章をほとんど認識できないでいる。
そもそも、VTuberの書き手同士が、相互の文章を認識できないのは、調べる方の怠惰があるにせよ、お互いが非常に追いにくいという構造的問題もあるだろう。

お互いが言葉を引用して論じ合えない界隈は、信用が得られない。アカデミーに信頼があるとすれば、それは相互参照によって問題点があぶり出され、解決されるためである(と、とりあえず素朴に言える)。また、外部の理論を事象に適用することによって、外部と界隈を接続することができる。
筆者においては、たとえば、早良氏のブログに反応することによって交流が生み出され、以下の文章が早良氏によって書かれた。
https://lesamantsdutokyo.hatenablog.com/entry/2020/09/24/193413
なお、筆者は上記の文章に全く答えられていないが、前回の月ノ美兎論や、このような文章を書き始めているのには、上記の文章の影響がある。
また、最近筆者がメインで採用している方法論は、ナンバ氏の理論を改造したものである。そしてナンバ氏の理論は、分析美学(外部)の方法論とVTuberを接続しようとしたものである。
早良氏の書いた文章にも、アルチュセールをはじめとした哲学(外部)とVTuberの接続が試みられている。そして、早良氏はナンバ氏に批判的であるが、それは感情的なものではなく(多少はあるみたいだが)、哲学的立場の違いによる。
筆者の例で恐縮だが、ごく素朴に考えて、こうした繋がり/ネットワークこそが、信頼を生み出すと考えられる。

noteにおけるVTuber批評には、引用し合い議論する契機が欠けているのではないかと思う(間違ってたら、筆者に直接、該当のnoteを教えてください)。たしかに、単なる感想に過ぎないものでさえ、ひとつもないよりは、はるかにマシなのだろう。しかし、それではあまりにも貧しい。
こうした相互参照のネットワークが作られれば、少しはVTuber批評も追いやすくなるのではないだろうか。

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【7】出版とVTuber

出版界隈までも、VTuber(批評)について興味を失っている。こうした出版界の態度は結局、「VTuberは一過性のブームであった」という認識を表明し、偏見を強化しているだけであり、劣悪である。
まあ、現代には腐るほどネタがあるのだし、VTuberを取り上げずとも済む(いまは書名に「コロナ」を付けておくのが安牌であろう)。VTuber批評は金にならない(売れない)、というのもあるだろう。もしかしたらVTuber関連の企画が通っていないという可能性すらあり得る。

筆者は知り合いに出版関係がいないので、情報求むという感じ。マジで。DMください。取材させてください。

出版という観点からすれば、VTuberより不遇なのは、むしろYouTuberや配信者たちかもしれない。
個人的には、「ニコ生4大癌とはなんだったのか」という特集を立てるくらいの、バカさ加減が必要だと思う(この企画通すところ、相当頭がイカれてるが、筆者は本当に大好きになるし全力で応援すると思う)。

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【8】VTuber自身がVTuber批評を必要としていない

ふつうに一番怖いのがこの点かも知れない。VTuber個人が「VTuberは、外側からどう考えられているのか」について無頓着である、という事態こそ、コンテンツを急速に衰退させるように思える。いまは資本の力で無理矢理延命させているに過ぎない(いや、金はもちろん重要なのだが、金がまわらなくなったら死にうる、ということだ)。
筆者が最近何度も指摘している通り、VTuberは演劇であり、演劇の特殊パターンである。演劇の歴史においては、言うまでもなく、メソッドが培われてきた。筆者の文章は、VTuberのメソッドそのものだと考えているが、VTuberたちは、行き当たりばったりに活動していけば大丈夫と思っているようだ(筆者の文章は、現場の人物が読んでも大きな乖離がないように書いているつもりである。つまりそもそも、現場の人間は筆者の文章を読んでいないのだ)。
たとえば、月ノ美兎が構造の鬼であることはすでに指摘したが、それはつまりメソッドの鬼なのである。月ノ美兎だけでなく、がうる・ぐらにもメソッドがある。それを我々は発見できていないだけだ。
がうる・ぐらが「かわいい」という評価で立ち止まってしまうのなら、それは批評ではなく「みんなが言ってることを一緒に言っているだけ」である。少なくとも2つの問いがある:「なぜかわいいのか」あるいは「かわいい以外に言うことないのか」。こうした問いに答えを出すことが、メソッドに繋がる。メソッドがない表現は、単なる行き当たりばったりである。そのことに対して、VTuberたちは自覚的だろうか。

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【9】まとめ

さて、文章も終わりに迫ったが、まとめと銘打った割には文章をまとめる気もない。

一番声を大にして言いたいのは、結局のところ最悪のエゴイズムである:「みんなぼくの文章を読んでくださいぃ。みんなでVTuberちゃんと語ろうよ~。最終的には、VTuber批評で本を出させてくださいぃひぃいいん」。憐れ。

さて、この文章もおそらく、いつも応援してくださっている方々以外には届かず、広いインターネットの海を漂流するのだろう。

盛大な無視の堆積に、心からの呪詛を!

 

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「我らが誇りの看板に
泥をぬって ツバ吐いて 逃げてった奴らに
爆笑のスタンディングオベーション
うしろから浴びせる時に
負け犬のマーチのアウトロ
きれいなピアノが聞こえてくるんだ
死にゆくその時
光る物があれば いいのだろう
バイバイバイ」

いよわ『さよならジャックポット

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