★「生々しいキャラクターのおぞましさ」:月ノ美兎とメタフィクション

 

滲む世界を/超えていく
何もかもを棄てていくから
私の中で/いつまでも
大好きな君でいてほしい

めざめP『うそつき』

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【要約】

月ノ美兎の表現には、常にメタフィクションがつきまとっている。「なぞのみと」は、既存の理論による分析からはみ出る存在であるが、メタフィクションという補助線を用いることで、VTuberの美学そのものへの皮肉、というメタフィクションとして読むことができる。

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【1】イントロ

本稿は「メタフィクション」という概念を用いて、月ノ美兎の表現を分析するものである。VTuberを分析する方法として、ナンバユウキ氏の「3層理論」があるものの、この理論を適用しても月ノ美兎の表現を汲み尽くすことはできない。筆者は上記の「3層理論」に手を加える仮説を提示したが、そうした操作も月ノ美兎にとっては、さして大きな意味はない。なぜなら、月ノ美兎がやってきたことは「メタフィクション」であり、そもそもVTuberの構造を暴露する作用を伴っているからである。

(*本稿の手に余るため以降は言及しないが、VTuberというコンテンツはメタフィクション演劇の最も尖鋭な形として捉えることができる。演劇研究者、演劇理論プロパーによるVTuberの研究がまたれる。)

(**ナンバユウキ氏の理論については下記参照。
http://lichtung.hateblo.jp/ (2018/05/19の記事)
また、上記理論に対する筆者の批判的コメントについては下記参照。
https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/09/21/025548

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【2】「メタフィクション」の導入

さて、「メタフィクション」とは何か。そもそも「フィクション」とは何かが定かではないのに、そのメタなど語れるはずもあるまい、という非難はもっともである。しかし、本稿ではメタフィクションを「フィクションの構造を暴露する表現」と差し当たり定義し、話を先に進める。

(*筆者は、これ以外のメタフィクションの定義について、どうかご教示下さいというスタンスである。)

メタフィクションには、次のような特徴がある:①自己言及、②構造の暴露、③パロディ、④枠構造。これ以外にもメタフィクションの特徴はあるが、本稿で用いるものを特別に選んだ。

(**たとえば、映画のカメオ出演のような例(作者の作品内での登場)は除いている。また、配信という行為は「作中内で登場人物が作者に語りかける」というメタ表現と重なるが、本稿では特に触れない。)

①自己言及:たとえば、漫画Aのなかの登場人物が「この漫画は面白くないなあ」と言いながら、漫画Aを読んでいる、という表現。また「ちゃんと青春漫画みたいに真面目にやろうぜ」という台詞は、登場人物が「青春漫画」というジャンルへ言及している。より先鋭的になれば「俺たちは漫画の登場人物だ」と、登場人物自身が言い出す場合も考えうる。

②構造の暴露:メディアを構成する要素を直接用いる表現。たとえば、漫画の登場人物がフキダシに噛みつきながら「この台詞マズイね」などと言う場合。映画の登場人物が、カメラを両手で押さえつけ、レンズにキスをする表現。アニメにおいて、完成した絵ではなく、ラフやL/O、原画のまま放送するという場合。

③パロディ:既存の作品を、それとわかるようにあからさまに模倣すること。既存の作品の有名な台詞をもじった台詞。『たけしの元気が出るテレビ』の「たけしメモ」を模倣する『リチャードホール』における劇団ひとり。天開司。

④枠構造:「**内**」と表現されるもの。絵画のなかに絵画が書かれている(絵画内絵画)。小説のなかの登場人物が書いた小説が長く引用される(小説内小説)。

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【3】修正3層理論による分類

さて、それでは実際に月ノ美兎の表現について考えてみよう。3層理論による分類は、キャラクタ/ペルソナ/パーソンであったが、本稿ではこれをより単純化して、キャラクター/キャラクターのギャップ/パーソナルな要素という分類方法で、月ノ美兎を分析してみよう。

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【3-1】キャラクター

これはまず、(a)月ノ美兎というキャラクターのビジュアルと、(b)公式サイトに書かれている文言、が考えられるだろう。要素に分解して整理すると、以下のようになる。

(a)2Dイラストであること・黒髪・長髪・青い眼・ヘアピン・制服(・イラストレーターのねずみどしの絵柄)
(b)高校2年生・ツンデレだが根は真面目・学級委員・頑張り屋だが少し空回り気味

そして、これらの要素から視聴者が勝手に想像するイメージ(c)がある。たとえば、「黒髪=清楚」という固定観念。このイメージ(史)は、オタクの想像力(の歴史)そのものであって、これはこれでかなりの分量の記述が必要になるが、本稿は特に触れない。その代わり、次に提示する「ギャップ」によって、固定観念が逆に強調されていることだけを指摘するにとどめる。つまり『ムカデ人間』の説明がされることによって、対立項の「清楚」が立ち上がってくる、というふうに。

(*(a)に挙げた要素は、初期の服装のものである。月ノ美兎はかなりの数の衣装を持っており、それぞれに異なる印象が付随すると思われる。本来は、服装が醸し出す印象とギャップ、パーソナルな要素、そしてメタフィクションの関係をそれぞれ詳細に語るべきなのだろうが、本稿はさしあたり最も初期の単純なパターンだけを示す。)

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【3-2】キャラクターのギャップ

月ノ美兎はまず、自身の最初の動画から「黒髪=清楚」のような固定観念を揺るがす。たとえば、最初の動画には上記(a)に分類できるもの以外にも、次のような要素が含まれていた。

・2018/02/08
https://youtu.be/8tTKwtgzJwA
(d)映画(バックのタイトルが不穏)・紅茶・モツ(赤子の拳)・バーチャルアイドル

不穏なタイトルばかりの映画群は、風紀を守る学級委員長というイメージを揺るがす。また、紅茶と委員長は整合的だとしても、モツというパンチのある食べ物、しかも特に好きなそれを「赤子の拳」と表現することは、普通の「委員長」イメージを飛び越えている。その一方、バーチャルアイドルという目標は、高校生という設定からして自然だろう(たとえば『ラブライブ!』等)。
こうしたキャラクターのギャップは、月ノ美兎が特別に行ったことではない。すでに、電脳少女シロやねこますによってキャラクターのギャップを生み出す方向性は確立されていた。前者は、清楚そうな女の子がFPSゲームをやるとサイコになるというギャップ、後者は、見た感じ狐の女の子が若い男性の声で世知辛い世間話をするというギャップである。

(*そもそも、キャラクターのギャップはVTuberに固有のものではない。通常の物語においても、キャラクターのギャップは描かれる。たとえば『プリパラ』の南みれぃと北条そふぃは、「プリパラ」内外での人格のギャップが大きい人物として描かれている。また、性格の解離を「多重人格」と結び付けて表現に用いる場合すらある(『俺たちに翼はない』『素晴らしき日々』など。特に後者は、解釈によっては多重人格ですらない)。)

(**VTuberと「多重人格」というテーマで最も重要なのは出雲霞である。彼女はその設定ともパーソンとも判別不能な振る舞いによって、構造的な分析を揺るがす。このことに関しては、また後日論じてみたい。)

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【3-3】パーソナルな要素

筆者は以前、「パーソナルな要素」を次のように分類した。この分類を月ノ美兎の表現に当てはめてみると、次のようになる。

(e)作為的なもの
①設定から逸脱した、個人的な情報
(ex.「モツ鍋にはビールが合う」「アマガミプレイ済み」発言)
②感情的・衝動的行為
(ex.クソゲーに煮詰まり、暴言を吐く)
③実写映像に写る影・手・本人の顔など
(ex.なし。ただし、いわゆる「中の人バレ」を考慮にいれるならこの限りではないが(中の人のTwitterには彼女の顔が実に挑発的に放置されている)、それでも当然、配信内で並置されたことはない。)

(f)不作為的なもの
①無意識的な動作、動きの癖、笑い方など
(ex.あまり動かないLive2Dだったため、特徴的な笑い方のみ)
②あくびやくしゃみ、せきなどの不随意的行為
(ex.初期の月ノ美兎は喉を痛めている期間があり、咳をしていることが多い)
③空間を感じられる音
(ex.洗濯機に足をぶつける音)

このように初期の月ノ美兎でさえ、パーソナルな要素は随所に散りばめられていた。しかし、これらの特徴はVTuberより前に、すでに「配信者」によって表現されたものではある。たとえば、上記と同じ分類枠を「永井先生」の配信にも適用することはでき、実際に成功するだろう。
あくまで、VTuberにとって重要なのは、(a)~(f)の表現群が、いわば「VTuberという入れ物」のなかに、ある階層構造をもって整理され認識されることだろう。たとえば、「永井先生」に「中の人」や「魂」がいるとは、普通は考えられない。視聴者が「中の人」や「魂」といった階層構造を発見し、それら階層構造同士が(ギャップなどの)関係性を生み出すことで、VTuber(ここでは月ノ美兎)が成立する。
そのため、たとえば「VTuberをみるのにそのような階層構造など認識していない/認識するべきではない」という言い方は、VTuberと「永井先生」を同一視してしまう、解像度の低い見方なのである(これは、こうした見方が無意味であるという意味ではなく、そもそもの見方が異なっており、見える結果が異なる、という程度の意味である)。

(*【5】のために先取りして言えば、VTuberはキャラクターであるが、生き物のように動く(生きる)。キャラクターの部分と生き物の部分が同居している様子は、比喩を用いれば、機械の身体と生身の身体が癒着した状態と表現できる。筆者は、こうした状態の前提には、≪(a)動くはずのないものも生命をもつ(素晴らしいもの)とする美学≫があり、かつ、≪(b)(a)の美学はおぞましいとする美学≫が並立しているものと考えている。
この、非常に偏った美学(a)(b)の並立は、VTuberの本質である。モーションキャプチャVTuberの形式的本質だが、美学(a)から導かれる要素に過ぎない。)

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【4】メタフィクションによる分類

次に「メタフィクション」として提示した要素を用いて、月ノ美兎の表現を分類してみよう。

①自己言及
ex.「これがVTuberなんだよなあ」
ジャンルとして確立したVTuberというワードを、≪自分の画像を消しクソゲーを取った状況≫に無理矢理当てはめた表現。これは、先の分類でいう(a)を消去してしまうことであり、VTuberから程遠くなるように思える。しかし、この時点で月ノ美兎は、(a)が消えても(b)~(f)さえ残り、その階層構造が保存されていれば、その対象はVTuberと言えそうである、ということを感覚的に把握していたのではないだろうか。

②構造の暴露
ex.初配信(Mirrativ)での以下の発言。
「泣きのモーションが用意されてない」
「キャラクターの崩壊がヤバイ」
キャラクターに表情が用意されていなければ、その表情は当然できない。このことについて特に触れる必要はないはずだが、ここでは意図的にVTuberの仕組みに触れている。また、キャラクターが自分のことをキャラクターと言ってしまうのも、構造に関するメタ表現だろう。

(*ただし、すでに最初の動画のなかで「8人のキャラクターが」と言っているように、この頃はこの言葉に違和感を持たなかった、という歴史的経緯があるかもしれない。)

③パロディ
ex.イケボ配信者(ボイスチェンジャーでのイキリト構文・ルイズコピペ)

・2018/03/06
https://youtu.be/CNdVhhktd_A
*41:40~

VTuberと大きく重なる部分をもつ「配信者」のパロディ。とはいえ、でび・でび・でびるの「でびっち」のように完璧なパロディではなく、部分的なものにとどまる。

④枠構造
ex.「へラピン」

・2018/04/01
https://youtu.be/tw4MSU90Ru0

月ノ美兎の胸元に刺さっているヘアピンが勝手に配信をはじめ、ヘラり、最終的に配信サイトの「ふわっち」の宣伝をして終わる、という配信。
筆者はこれを「VTuberVTuber」として捉えたかったものの、へラピン自体は一定の動きのリピートであり(モーションキャプチャではないという)形式的な面でVTuberではないため、厳密に言えば枠構造ではない。正確に言えば、月ノ美兎というキャラクターに含まれる要素(a)をキャラクターにしているので、「キャラクター内キャラクター」である。しかし、擬似的にVTuberの枠構造をもたらそうとした例としてカウントして良いように思える。
ちなみにこの「へラピン」は、「ふわっち」にいる配信者のパロディでもある。先程のボイスチェンジャーの例よりも、さらに徹底したパロディになっている。

(**へラピンは、のちの夢追翔などによる「マスコットキャラ選手権」に継承されていく。しかし、彼らの持つキャラクターのどれよりも、へラピンのほうがキャラクターとして深みがあると思われる(たとえばへラピンは、月ノ美兎への愛情が憎しみに転換している)。また、郡道美玲の「うさちゃん先生」は、キャラクターは強烈であるが、郡道美玲のものである必然性が、キャラクターではなくパーソナルなエピソードに基づいている。このようにへラピンは、キャラクター内キャラクターとしてより純粋であるとも言えるだろう。)

このように、月ノ美兎メタフィクション的な表現をかなり豊富に使っている。
注目すべきは、月ノ美兎はおそらく、こうしたメタフィクションを「笑い」として使用していることであろう。VTuberへ没入している状態から、はっと現実に連れ戻されることによる笑いである。それっぽい用語を使えば、連続性の破れを強調することにより、不連続性を暴露する笑い。これは、彼女が敬愛する久米田康治の作品にも共通する方法だろう。

(*2020/07/30に放送された『ダウンタウンDX』にキズナアイが出演したが、キズナアイに対して浜田が発した言葉は「裏でどうせ声やってんねんやろ」であった。これは間違いなくVTuberのメタ的な構造を利用したギャグである。ギャグの仕組みとしては、≪キズナアイの裏には誰もいない≫という約束/禁止を、浜田が破る(禁止の侵犯)という古典的な形になっており興味深い。)

また、月ノ美兎は「笑い」以外にメタフィクション的感性を発揮していることがある。たとえば、剣持刀也とのラップバトル。

・2018/10/11
https://youtu.be/FfjZmhu3GQY

ラップを「言葉遊び」「ダジャレソング」と表現することで、ラップという表現形式(構造)自体への攻撃になっていることが興味深い。これは剣持に向けられた言葉であるとともに、ラップの持つ「韻」という構造へ向けた言葉であり、メタ表現と言える。バトルの内容としては、剣持の用いるラップが「ラップ」に満たない「言葉遊び」や「ダジャレソング」であると攻撃しており、剣持はこれに応答できていない(とはいえ、メタ表現に応答するほうが難しいのであって、剣持の対応は順当である)。
このように、月ノ美兎の表現にメタフィクションはたえずつきまとう。彼女は主に「笑い」としてこれを用いているが、笑い以外にも用いられる場合がある。

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【5-1】「なぞのみと」と月ノ美兎

ここまで、修正した3層理論とメタフィクションの分類によって月ノ美兎を分析してきたが、これでも語り尽くせない部分が残る。かなり特殊なメタフィクションとしての「なぞのみと」の存在である。

(*このキャラクターは、平仮名で「つきのみと」と称されることもあるが、本稿では一貫して「なぞのみと」と記述する。)

「なぞのみと」が月ノ美兎というコンテンツに現れたのは、次の配信や動画である。

(1)2019/04/01:エイプリルフール(公式は非公開)
https://nico.ms/sm34896395
届いたビデオを開いたところ、なぞのみとが映り、こちらへ殴りかかる動作など、謎のアピールを繰り返す。月ノ美兎とは、身ぶりと「美兎ボタン」で会話をする。途中、月ノ美兎から食べ物(チキン)をもらう。『ハッピーシンセサイザ』や『ルカルカ★ナイトフィーバー』を踊り、気が済んだのかビデオを止める。

(**なお、自分は以前Twitterで、この放送内容とカスった内容(マックスヘッドルーム事件)に言及しており、勝手に感動した覚えがある。以下のブログを参照。
https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2019/06/16/232513

(2)2020/01/01:メジャーデビュー告知
https://youtu.be/kPd4AudNYdo
なぜか農作業?をしている。手前の月ノ美兎が「誰!?」と言っているため、前回の対面はなかったことにされているかもしれない(実際、前回のアーカイブは非公開である)。

(3)2020/04/01:エイプリルフール
https://youtu.be/gB2E54dzk30
ゲーム『RFA』で遊ぼうとしたところ、なぞのみとが現れ、放送をジャックする。背後の襖から出たと思いきや、パーティグッズと共に横から飛び出す。『ぴえんの歌』に合わせて踊るだけでなく、PV風の映像が流れる(B級ホラー的な躍動感のあるカットを含む)。
その後、月ノ美兎の放送画面になぞのみとが現れる。月ノ美兎は、視聴者が作成したアイテムを用いて、なぞのみとを追い払おうとする。ビール(銀色のヤツ)をあげる、プールに落として水責めする、サイリウムを与えてヲタ芸を踊らせ最終的に再び水に落とす。なぞのみとは観念したのか、足早にどこかへ去っていく。

(4)2020/04/20:「つきのみと没カット集」
https://youtu.be/o6-na8AVSqI
(3)で使わなかったものの再利用。月ノ美兎チャンネルの動画のなかで最も再生数が多い。冒頭に「未来の子供たちへ向けて」という白々しいキャプションがついたあと、全く関係のないなぞのみとの映像が流れる。

(5)2020/07/17:「Face App つきのみと」
https://youtu.be/XRK9xxfkhk4
なぞのみとがアプリを使って、自分の表情を変えようとしたところ、背景に笑顔が現れ卒倒してしまう。

(6)2020/09/07:60万人耐久バトル
https://youtu.be/qyIWjOSBr6c
チャンネル登録者数60万人を祝うためにやってきたなぞのみとが、勝負を仕掛けてきた。60万人到達まで『NyaNyaNyaNyaNya』を月ノ美兎は歌い、なぞのみとは踊り、力尽きたほうが負けという根比べが始まった。5000人ごとに月ノ美兎が謎の攻撃をし、なぞのみとは弱っていく。結局60万人に到達したことで、なぞのみとは墓石に変化する(あるいは墓石の下に埋葬される)。

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【5-2】「なぞのみと」とはなにか?

さて、改めて「なぞのみと」とはなにか。幾つかの視点から考えてみよう。

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①再生数の稼ぎ頭/「驚き」「恐怖」「笑い」

なぞのみとは、月ノ美兎というコンテンツのなかで、かなりの数の再生数を稼いでいる。(6)ではそのことを論拠に、なぞのみとが月ノ美兎を煽る場面さえある。
なぜ、このようになぞのみとは受容されたのだろうか。素朴に視聴者の反応を予想してみよう。まず、とにかくインパクトがある。その強烈なビジュアルと月ノ美兎との対比によって、視聴者の「驚き」や「恐怖」を喚起する。また、なぞのみとのちぐはぐな存在感、または理解しがたい存在が画面内で跳ね回ることによる、シュールな「笑い」もある。
この「驚き」「恐怖」「笑い」が、なぞのみと人気の理由の一部と、差し当たり仮定してよいだろう。それでは、この仮定と【1】~【4】の分析をもとに、さらに細かく考察すれば、どのようなことが見えてくるだろうか。

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②「なぞのみと」は誰か?

(1)のコメント欄からわかるように、なぞのみとへ対する問いとして最初に挙げられるのは、「この中に入ってるヤツは誰だ」である(この問いは(6)のコメント欄まで続いている)。月ノ美兎自身という説、月ノ美兎の友人(ご学友)という説、初期にはライターのArufaという説まであった。どうしてこのように、幾つかの考えに割れてしまうのだろうか。
たとえば、VTuberのぽんぽことピーナッツくんは、月ノ美兎/なぞのみとと同じく「着ぐるみ」をもつVTuberである。この二人の場合、VTuberと着ぐるみで、中の人が同じという確証がある。なぜなら、二人は着ぐるみになっても、VTuberのときと同じキャラクターとして振る舞うからである(特に、同じ声であることは間違いないだろう)。
しかしなぞのみとは、月ノ美兎と同一人物であるかを判別するのが難しい。たとえば、なぞのみとには声がない。そのため身振りのみで判別することになるが、これはかなり難しい。これは筆者が前回指摘した、物理的パーソンについて視聴者は知り得ない、ということに繋がっている。

(*ただし、キャラクターと想像的パーソンの共通点である「身長の低さ」という情報があれば、想像して一致させることはできる。)

この、なぞのみとを「誰か」に確実に帰属できない違和感が、驚きや恐怖に繋がっていると考えても良いだろう。もし月ノ美兎が、なぞのみとに声を与えていたら、こうした違和感を抱くこともなかったのである。

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③「配信」から排除された、異物としてのなぞのみと

なぞのみとは幾つかの点で、配信上のコミュニケーションの取り方としては特殊なキャラクターになっている。
なぞのみとと月ノ美兎は、コミュニケーションを取ることができる。しかし、なぞのみとには声がなく、「みとボタン」による代わりの声、マルバツボタンによる応答、身ぶり、踊りといった表現しかできず、コミュニケーションにおいて非対称的である。
また、なぞのみとは「配信ジャック」をしているにも関わらず、コメント欄と交流することができない。応答するのは月ノ美兎の声に対してのみであって、コメント欄や視聴者へのパフォーマンスは行わない。月ノ美兎のやり方によっては、なぞのみとの行動に分岐をもたらすことも可能だっただろう(たとえば、AとBの選択肢を用意し、視聴者の声が大きい/小さい方をなぞのみとが行動する、など)。しかし、なぞのみとは「配信」への参加機会すら奪われている。
こうして「配信」という相互作用から排除されたなぞのみとは、異物として恐怖される、あるいは笑いの対象になる。なぜなら、あくまでなぞのみとは、配信という出来事において当事者ではないからである(これは、なぞのみとが、リアルタイムの配信ではなく、おそらく録画であることにも関係があると思われる)。

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④「なぞのみと」は、どう分類できるか

まず、なぞのみとは、VTuberではない(2D・3Dソフトで作られた画像ではないため)。つまり(a)をもたない。
また、なぞのみとには、公式のキャラクター説明がないため、厳密には(b)ももたない。しかし、なぞのみとのキャラクターは視聴者にとって、ある程度一貫していると思われる。たとえば、イタズラ好き、おちゃめ、クレイジー、好戦的、威圧的といった要素が思い浮かぶ≒(c)。(5)を考慮すれば、意外と弱虫、といった言い方もできるだろう(ギャップとしてのd)。また、着ぐるみを用いているため、パーソナルな要素が強く表現される(動きの癖など=(e)(f))。
このように、なぞのみとは決してVTuberとかけ離れた存在ではない(すこし似ている)。しかし前述した通り、視聴者とのコミュニケーションは遮られており、あくまで形式的に似ていると言えるに留まる。

さて、メタフィクションとしてのなぞのみとはどう考えられるだろうか。
月ノ美兎のキャラクター要素(a)をキャラクターにしている点で、なぞのみとはヘラピンと共通している(④枠構造:キャラクター内キャラクター)。相違点は、一定の動きの繰り返しでしかないへラピンと異なり、なぞのみとには「着ぐるみ」という天然のモーションキャプチャがある、という点であろう。
しかし、その着ぐるみは(a)をもとにしているのにも関わらず、非常にグロテスクである。髪はボサボサ、顔は正しくあるべき位置からズレ、肌は不自然に膨らんでいる。(5)からもわかるように、なぞのみとも、自身のおぞましさについて自覚的なようである(≒①ある種の自己言及)。なぞのみとは、アプリを使用することによって、美しくなることを期待していたように思える。
ではなぜ月ノ美兎は、なぞのみとをこのようなビジュアルに仕上げたのだろうか。以下、コスプレの比喩を交えながらこのことについて考えてみよう。

なぞのみとを、≪2D・3Dキャラクターの画像を、現実世界に模写しようとした例≫として考えれば、コスプレもまた同様のことをしている。コスプレは、決してキャラクターの画像の模写に尽きるものではないが、模写の結果が評価されやすい表現方法だと、差し当たり言えるだろう。なぜなら、コスプレの美学に詳しくない人間でも、模写がオリジナル通りに行われたかどうかは判別がつきやすいからである。
そのため、コスプレの失敗のひとつとして、キャラクターの画像と現実のビジュアルがあまりにもかけ離れている、という状態があり得る。このことをなぞのみとに置き換えると、なぞのみとは月ノ美兎コスプレの失敗例である。大きい枠組みで言い直せば、なぞのみととは、VTuberのコスプレに失敗したコスプレイヤーである。
先に確認したとおり、なぞのみとはVTuberに形式的にすこし似ているが、キャラクターの画像ではなく、視聴者とのコミュニケーションが取れない点で、(存在論的に)VTuberではない。なぞのみととは、いわば、VTuberの出来損ないのコピーなのである。
しかし、こうした状況は、月ノ美兎によって意図的につくられたものである。この状況は、数ある選択肢から選ばれたものであるのだが、ではなぜ、この状況なのだろうか。

結論を先取りすれば、筆者は、月ノ美兎が、VTuberに関する2つの美学を暗示しており、そのうち片方の美学(a)が不可避的に選ばれることの皮肉として、この物語を作り出した、と考えている。

先の註釈で述べたとおり、美学(a)とは「動くはずのないものが生命をもつ(ことは、素晴らしい)」であり、美学(b)とは「動くはずのないものが生命をもつことは、おぞましい」である。
この物語において、VTuberかつオリジナルである月ノ美兎は美学(a)の体現者、VTuberの出来損ないのコピーであるなぞのみとは美学(b)の体現者である。美学(a)は、美学(b)という疑念を排除しながら存続している。
月ノ美兎はなぞのみととの戦いに、不可避的に勝利することで、美学(a)を守りきる。しかし、この物語は美学(a)の勝利というストレートな意味以外にも、美学(a)が美学(b)を暴力的に排除している可能性という裏側の意味があり、皮肉めいている。

こうした背景があるために、月ノ美兎は「出来損ないのコピーとしてのなぞのみと」という状況を選んだのだと言える。以上のことを、「なぞのみとの弱さ」という視点から言い直してみよう。

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⑤「なぞのみと」が弱いのはなぜか

月ノ美兎となぞのみとは(1)~(6)の戦いを繰り広げてきた。しかし、戦いが進むにつれ、月ノ美兎が有利になり、なぞのみとが不利になっていく傾向がみられる。

(1)や(2)の段階では、なぞのみとは単純に恐怖や驚きの対象である。月ノ美兎は特に攻撃的な干渉はしていない。
しかし(3)において、月ノ美兎の2D空間へなぞのみとを召喚できることが判明してから、力関係が月ノ美兎に有利なものへ変わった。(3)において月ノ美兎がなぞのみとをいじめる様子は、彼女のサディスト的側面、嗜虐的な面を示してもいる(彼女はそうした嗜好を半ば明言しているし、ゲーム実況やリゼ・ヘルエスタとのやり取りにおいても、そうした面は現れる)。
(5)において、なぞのみとは自身のおぞましさを内面化しており、またホラー的な表現にめっぽう弱いことがわかる。なぞのみとについて、(3)が物理的な弱さを示すものなら、(5)は心理的な弱さを示している。
そして(6)において、なぞのみとは音楽がかかると踊り出してしまうという(ほぼ弱点に等しい)設定付けがされている。また(6)の空間は、謎の攻撃を持ち、観客の助けもある月ノ美兎のほうが圧倒的に有利である。なぞのみとは、かなりアンフェアな状況で戦いに挑んでいる。
このように、なぞのみとは回を追うごとに、恐怖や驚きの対象としての強さを剥ぎ取られ、弱さを示す表現や不利な状況へ追い込まれ、最終的には墓石に変身して(埋葬されて)しまう。

ではなぜ、なぞのみとはここまで弱いのだろうか。
端的に言ってしまえば、月ノ美兎が負けたら困るからであり、そもそも月ノ美兎が負けるシナリオなど用意されていないからである。どういうことか。

もう一度、美学(a)と美学(b)に戻って考えてみよう。
月ノ美兎やほとんどのVTuberは、美学(a)が完全に達成される、直線的な歴史のうえを歩み続けているように思える。たとえば、「新しい生き方」としてVTuberが賞揚されるとき、それは特に顕著だろう。
しかし、美学(a)の裏側には、美学(b)がべったりとはりついている。このことを「なぞのみと」の物語は示している。比喩を用いれば、なぞのみとの物語は、美学(a)の直線的な歴史によって覆い隠された美学(b)を、無理矢理引き剥がし、露出させようとしている。
とはいえ最終的には、美学(b)の体現者であるなぞのみとは、美学(a)の体現者である月ノ美兎に破れる。仮に、月ノ美兎が破れるということがあったならば、なぞのみとが正式にチャンネルの主になるということだが、そんなことは起こりそうもない。
このことは、月ノ美兎が過度に死を恐れていることと関係しているだろう。なぞのみとの勝利は、直接的に月ノ美兎の死を意味している。そのようなシナリオを、月ノ美兎が書くとは思えないのである。

つまり、なぞのみとが弱体化していく背景には、月ノ美兎が死を恐れているという心理的な要素だけでなく、美学(a)の勝利の物語を示したいという意図も含まれているのである。
しかし、それは物語の表面的な意味に過ぎない。物語には、月ノ美兎が意図的になぞのみとを弱体化しただけでなく、嗜虐心のままにいじめた事実も含まれている。月ノ美兎は、力の差があるキャラクターに対して、オーバーな力を振るう人物としても描かれている。このことは、美学(a)のもつ暴力的な(露悪的な)側面を描き出している。

このように「なぞのみと」の物語は、VTuberという存在に対する盛大な皮肉(アイロニー)として成立している。美学(a)の勝利を祝うだけでなく、美学(a)がどれだけ暴力的(残虐)であるかを、この物語は同時に示している。そのために、なぞのみとは、配信から排除された異物として、オリジナルに対する出来損ないのコピーとして、過度に弱体化され敗北を運命付けられたキャラクターとして、描かれるのである。このようなプロセスを経た結果として、観客は「驚き」「恐怖」「笑い」を喚起されたのであった。

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【6】まとめ

このように、月ノ美兎の凄みは、単純なメタフィクションだけでなく、VTuberの美学において触れたくない部分まで触れ、掘り起こしたところにある。
月ノ美兎はおそらく、常に構造を見ようとしている。構造の認識があるからこそ、メタフィクション(構造の外側に出ること)が可能になる。美学(a)に対する皮肉が思い浮かぶのは、彼女が構造でものを考えているからではないか。

しかし、月ノ美兎はなぞのみとが敗北する物語を描いた。筆者の個人的な感想としてはやはり、なぞのみとが月ノ美兎に勝利するようなラディカルさを、実際に見てみたい。美学(a)をかなぐり捨てたVTuberは一体どうなるのか。
とはいえ、こうした筆者の皮肉な考えをよそに、VTuber業界全体としては、美学(a)の実現へ邁進するだろう。資本もそこに集中するかもしれない。通常のVTuberの構造は、さらに効率的に分かりやすく洗練され表現されるようになるだろう。
しかし、もし諸要素のみを効率化するだけならば、古き配信者たちと同様のものに過ぎなくなる(「VTuberは生主に過ぎない」という考え方)。構造が、しきりが、あいだが、要素同士の矛盾そのものがVTuberであるならば、それらを示せなければ、VTuberは特に新しさもない。メタフィクションは、VTuberの可能性(新しさ)を切り開くためのヒントになりえる。

なぞのみとは、墓石の下に埋葬されたかもしれない。しかし、墓からのあまりにも安易な復活こそ、まさにB級ホラー映画のパロディではないか。
なぞのみとの復活と、VTuberの持つ可能性が花開くことを願う。