★「VTuberという茶番劇の終わりに」:郡道美玲とRP

★要約
郡道美玲の「RPの否定」には、「存在の示し」を通じて「コンテンツの閉じ」へ向かう論理が伏流している。筆者は開かれたコンテンツへ変えていくべきだと考える。

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・RP=ロールプレイ
この記事では、RPという曖昧な語について精査はせず、「演劇」「演技」「設定を守ること」といった意味でアバウトに用いる。RPという考え方は、VTuberを語るうえで必ず参照されるが、必ずしも厳密な考察がなされているとは言いにくい。この記事では、RPの否定において、VTuberがどう変容するのか考えてみたい。

 

・元配信と発言内容
にじさんじVTuber(ライバー)である郡道美玲は、下記の配信で「私は教師じゃない」と自身のRP(設定)を否定した。

https://youtu.be/7L3rnmWSkKA
*2:14:25~

念のため補足しておこう。該当部分のすこし前をみるとわかるように、かなり直前まで「教師」らしい言葉を重ねてきただけに、この「私は教師ではない」という否定部分がかなり唐突で、筆者は面白いと思ってしまった。そして、この否定が終わった後は「教師」の話も含めた世間話に戻っていく。ただし、この配信で明確な「否定」がされているとはいえ、彼女が常時RPを否定しているとみるのは適切ではない(後述)。

 

・「RPの否定」の成立
さて当然ながら、RPの否定は、RPという前提がなければ成り立たない。彼女が今までRPをしてきたからこそ、「RPの否定」という表現があり得る。
たとえば、彼女がデビューしたときに流行した「待て、できるわよね?」ネタは、「教師」というキャラクターが前提とされなければ、意味がわからないだろう(その反面、意味がわからないから面白い、という面もあっただろう。「待て」は濫用されて意味を失い、ただのシュールなネタとなり、やがて消滅した)。彼女は確かに「教師」であった。また、彼女は他のVTuberを招いて授業を行っている。これは「教師」という前提がなければ、唐突なものになってしまう。このように、彼女は「教師」というキャラクターをRPしてきたのだった。こうした背景がなければ、そもそも「RPの否定」は成り立たない。
このように、郡道は元々RPに否定的であった訳ではないし、全面的に設定を守らない訳でもない。彼女には「教師」としての表現が、たしかに蓄積されている。

 

・「RPの変更」ではなく「RPの否定」
今回と似たケースとして安土桃を連想するかもしれない。下記配信の冒頭を参照。

https://twitcasting.tv/momo_azuchi_/movie/621803068

上記配信で、彼女は「女子中学生」ではなく「成人女性」であると明言している。
(*ちなみに、公式サイトには「女子中学生」とあり、非公式wikiにも「成人女性」とは明記されていない。ニコニコ大百科に関しては、成人女性の明記はないが、ツイキャスで使われていた別人格(成人)への言及がある。また非公式wikiには、彼女の公式設定の裏話が記載されている。)
このように、安土桃は「RPの内容を変更」したのであって、「RPを否定」したわけではない。
郡道のオリジナリティは、例えば「教師なんかダルすぎて辞めた」というRP路線の変更ではなくて、「私はそもそも女教師ではない」という否定を通じて、自らのアイデンティティ(のひとつ)を否定してみせたところにある。
(**RPの変更例としては、勇気ちひろ・森中花咲・出雲霞などが挙げられる。変更の内容や影響はライバーごとに異なっており、それぞれ掘り下げていく必要があるが、本稿では扱わない。)

 

・郡道と視聴者の関係:庇護欲、あるいは「演劇などない」という≪お約束≫?
「RPの否定」は、彼女が視聴者に対して嘘を付いていた、ということにもなりえる(つまり本来は、信用問題に発展しうる)。しかし、視聴者はそれで見限るのではなく、むしろその行為に「庇護欲」のようなものを掻き立てられる可能性すらある。上記配信のあとにも、彼女の活動は問題なく続いており、動画や背信の視聴回数もガタ落ちはしていない。
ごく単純に考えて、RPによって蓄積された絆が深ければ深いほど、その否定は観客に対して大きな影響を及ぼすはずである。しかし観客は、もはや彼女がRPをしていることなどどうでもいい、という意見すら抱いている可能性がある。つまり彼女の構成要素に「演技」など含まれていない、ということだろう。
すなわち、演劇の言葉で言い直せば、彼女は「女教師」という不在のキャラクターを再現するのではなく、ただ単純に、≪彼女がいる≫ことを示すのである。このとき、≪ここに演劇などない≫という約束ごとだけがあり、古典的な意味での演劇は成り立たないように思える。

 

・「演劇」を越えた「示し」
では、彼女は一体誰なのだろうか?
彼女は、彼女自身を純粋に「示そう」としている。そして郡道のリスナーは「示される」ことによって、より≪演劇などない≫という約束ごとを強化していく。この「示し」があることによって、上記の問いは意味をなさなくなる。たとえば、「彼女は彼女であって、他の何者でもない!」という答え。
(*≪演劇などない≫という言葉/信念は、「種も仕掛けもございません」というマジシャンのパフォーマンスに酷似している。また、顔出し配信者の一部は、この≪演劇などない≫という観念を中心に配信を組み立てているように思える。)
より具体的に言えば、いわゆる「全肯定」とはこの状態を指す。役者のパフォーマンスに外部的な評価軸を持ち込まず、すべての示される言動を肯定するあり方である。このとき、郡道美玲というコンテンツは外部に対して完全に閉じることになる。
(**ちなみに、郡道は「信頼できない語り手」なのである、という言い方もできる。彼女が卓越した叙述トリックを披露するかは不明だが、メタフィクションの技法のひとつとして片付けることも、いちおう可能ではある。)

 

・まとめ:部分的な「RPの否定」から「コンテンツの閉じ」の可能性へ
しかし、「RPの否定」は「外伝的要素」であるという解釈も不可能ではない。たとえば、『レバガチャ』出演時には、「教師」として紹介されている。また当然ながら、公式の紹介ページには「教師」と書かれている。このように、公的に彼女は「教師」キャラクターであって、この名義を変えさせるようなことはしていない。
もし、彼女のこぼした「RPの否定」を徹底させるのならば、こうした公的な記述もすべて書き直す必要がある。しかし彼女はそんなことはしていない。「RPの否定」は、部分的に述べられたに過ぎないのである。
(*筆者は彼女の配信をすべて追えている訳ではない。しかし彼女の環境を考えると、もしかしたら今回の発言はRPを続けることへの疲れが生じただけだったのかもしれない。つまり彼女の表向きの意図とは異なり、言葉だけがこぼれた可能性は考えうる。)
そのため、今まで述べてきた「RPの否定」⇒「存在の示し」⇒「コンテンツの閉じ」という流れは、常に表に現れるようなものではない。しかし、今回の彼女の発言により、郡道美玲というコンテンツに、上記の論理が伏流していると考えられる。

 

・最後に、安土桃から一言
「エイプリルフールが終わっちゃったけどわたしはこれからも紛い物の自分を演じ続けるよ。なぜなら私はVtuberだから…。ってやつ思いついたけどかなりいつも素でやってるので特にそんなこと無かった。」
https://twitter.com/momo_azuchi_/status/1245874113052160000

 

*補足:上記の論理を比喩で考える
たとえば、某大川氏は巨大な霊力を持っており、霊力を用いて故人を自分の身体へ憑依させることができるとしよう。
このとき、某大川氏を指して≪これは「演劇」である≫と言ってしまえば、このパフォーマンスは単なる茶番劇である(もしかしたら、良くできた演劇かもしれないが、素朴な科学を信じる現代人には、厳しい内容にならざるを得ない)。このパフォーマンスが「凄み」を帯びるには、まず「演劇を否定」しなければならない。
次に憑依のシーンに入り、故人が某大川氏の身体を借りて話し始めたとしよう。これは、超自然的な出来事であり、普通の論理では説明できない(=「示される」)。これに言葉でもって対抗する人は、示されていないと言えるだろう(「いや、台本読んでるだけでしょ」云々)。
さて、示されてしまったことは、既存の論理では説明できない(「語り得ないものについては、沈黙しなければならない」を守る場合)。このとき、外部の論理、たとえば「Aという仕掛けがあり、Bという結果が生じた」という論理は、通用しない(多くの場合、無視される)。こうして、某大川氏のコンテンツは成功し、より深く閉じていく。
筆者の個人的な意見としては、上記のあり方は長期的にみて得策ではないと考える。閉じたコンテンツ、閉じた組織がやがて崩壊してしまうことは、様々な歴史において語られてきたことでもある。外部に開かれたコンテンツづくりを、当事者が意識することによって、コンテンツが終わってしまうことを防げるのではないか、と考えている。