★「現実と虚構の揺さぶり」:神楽めあ3D配信の感想

★要約
①今までの「神楽めあらしさ」が凝縮された、良い3Dお披露目配信だった。
②「現実と虚構の揺さぶり」や「自然体」な振る舞いなど、神楽めあの良さが発揮されていた。
③「神楽めあ」という「キャラクター(心理・人間性)」を観察するという観点からも、その「二重性(分身性)」がよく現れていた。
④「何もない空間」を用いることで、キャラクターや没入感という観点だけでない、想像力を要する観かたを提示していた。

 

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・筆者はこれまで、ここまで「ぬるっとした」3Dお披露目配信を見たことがない。fpsが高いという意味ではない。いわば「カッチリ」していない3D配信だった。以下2点。

 

①残り時間への言及
例えば、よい配信を見たときに「時間を忘れていた」とか「もうこんな時間なんだ」というような感想が、演者や観客から漏れることがある。神楽めあは、そうした「時間を忘れるような没入」に至ろうとするとすぐに、観客に時間を意識させる言葉を漏らしてしまう。観客は、「めあ、今日もかわいいぞ」という没入状態から、あと残り時間はどれくらいか、という現実に引き戻される。筆者が思うに、神楽めあファンはこうした「虚構と現実の揺さぶり」を楽しんでいるのかと思う。
(*ちなみに演劇理論の文脈で言えば、この感想に最も近いのはブレヒトの「異化効果」だろう。しかし、神楽めあに社会的改革の意識はごく薄いため、その点において当てはまらない。)

 

②テンションの低さと「自然体」
主ににじさんじとホロライブの慣例として「あるノルマを満たしたら3D」という条件があるために、3Dお披露目配信は、演者にとってもファンにとっても、共に作り上げてきたことの達成を喜ぶ特別な時間になる。そのため演者はテンションが高い(黛のような、特別な仕掛けがある場合もある)。
今回のめあは、そうした3Dお披露目配信を見慣れている身からすると、テンションが低かった。身体的な限界=めちゃめちゃ疲れている、などの事情はあったかもしれない。しかし、普段のめあの配信を基準にすれば、普段通りのテンションと言えるだろう。彼女はいたって「自然体」であった。これも神楽めあファンのキーワードのひとつだろう。彼女は、彼女が意図するにせよしないにせよ、基本的には「自然体」であるように〈見える〉。それは、前述した通り、フィクションの側面が大きく出てしまった瞬間に、彼女が自分でツッコミを入れてしまうためでもある。3Dに対しても大きな喜びは表明せず、「次の3D配信は来年」と突き放す。彼女は3D配信の特別さに言及はしても、それをことさら強調することはなく、いつも通りの「自然体」を保っていたように見受けられた。

 

・基本的な「演技力」の高さ
いまここに無いもの(不在のもの)を、いまここに喚び出す(再現する)ために、不在のものを物真似(模倣)する、というのが「演劇」構造の、非常に古典的な解釈のひとつである。
神楽めあは基本的に、この模倣/再現のセンスが良い。彼女は物真似がうまく、相手の特徴をとらえることを得意としている(観察眼の良さ)。そしてそれをかなり正確に表現できる(表現力)。しかしその「演技力」の高さとは裏腹に、絶えず模倣の元や型をはみ出して、笑いに変えてしまう。こうした笑いの具体例として、ハリウッド・ザ・コシショウの「誇張モノマネ」があるが、神楽めあもまた、物真似を過剰に引き伸ばしてグロテスクにしてしまうことがある。
以上のことは、声+Live2Dの配信でも観察できた点だが、今回の3D配信は当然ながら、身体の要素が強く出た。ジェスチャーゲームの身振りも上手く(意外なほど「わざとらしい」身体表現ができる)、またダンスの振り付けもおぼろ気ながら覚えているなど、声を使うにせよ身体を使うにせよ、神楽めあは「型にはまった表現」が得意であると思われる。しかし、完璧にこなす訳ではなく、「型」に反抗する意識を常に持ち合わせており、常に「はみ出しもの」である印象も同時に受けた。

 

・メタなのに「わざとらしく」ない
他意がない、狙ってない感じが出ている。これだけメタ的に面白いことをやってるのに、「わざとやっている」感じが全然しない。この感想は普通、良くできた(没入感のある)劇について言うものだ(例えば、「あの俳優は役になりきっていた」等)。そして、「劇的なものをぶち壊す劇」は、得てして「それっぽく」なってしまう傾向がある。例えば、アニメ『ぱにぽに』で書き割りがあらわになる演出や、ポプテピピックの様々な演出は、見る人にとっては「わざとらしく」感じる。しかし、神楽めあは「劇的なもの」を絶えずぶち壊しているのに、「わざとらしく」感じない。それは、彼女が台本など考えずに(あるいは無視して)、思いつきで行動することで劇的なものをぶち壊し、後から「ごめんなさい」などと小声で言うところに現れている。彼女には、全く考えなしに行動し、瞬間的に反省するパターンがよく見られる。彼女はおそらく、意図的に台本を無視しようとは考えておらず、単純に守ることができない(むろん意図的なこともあるだろうから、すべての場合において当てはまる訳ではない)。

 

・分かりやすいキャラクター:二人の「めあ」
このように神楽めあには、アクセル役のめあとブレーキ役のめあ、2人のめあが住んでいると観察することもできる。
(*この観点は、演劇の登場人物の心理や人間性を予想して楽しむ「心理劇」的な視点である。)
ブレーキ役のめあは、とても真面目なのだがかなりズレている。アクセル役のめあが突っ走っても止められず、その結果に対してアクションを起こすことしかできない。今回の配信では、アクセル役のめあが「約束を破る」とき悪びれた様子はなく、ブレーキ役も結託して約束を破っていることがわかる。また、リハに1時間遅刻したのは不味かったが、本番に30分前に来るのはキモい、という論理もその理由(「自分が来ても気まずい」=自己肯定感の低さ)も含めて興味深い。
神楽めあのキャラクターを考える上で、上記の図式は非常に分かりやすい構図である。この図式を真に受けることで、世話を焼きたくなる、父性や母性をくすぐられる、というファンは多いのではなかろうか。たとえば、今回もモノマネされていた因幡はねるの言動は、上記の図式を意識しながら、面倒をみたい、母性を発揮したいという欲望を表している。

 

・「何もない空間」
しかし、神楽めあはこうした「心理劇」としての見方を排除してもいる。たとえば今回の配信は、キズナアイ的な「何もない空間」を選択している。最近の3Dお披露目の傾向からすると珍しい選択かもしれない。
「きちんと作られた部屋」は、フィクションへの没入感を増幅してくれる。例えば、この人はこういう部屋にすんでいるんだ、部屋には~が置かれているんだ、など。キャラクターに関する知識を深めることで、より劇に「入り込む」ことができるだろう。
このように「何もない空間」では、キャラクターを構成する要素ではなく、キャラクターの身体性が強調される。本稿の前半部に当たる「演技力」の分析は、この身体性の強調に依存していると言ってもよい。
(*VTuberの歴史として考えるならば、キズナアイと電脳少女シロの対比が考えられる。演劇史的に考えるならば、フランス演劇における「真実らしさ」、自然主義演劇における「リアリズム」などが考えられるだろう。そして「何もない空間」は、ピーター・ブルックの同名の著書を意識したキーワードである。)
また「何もない空間」は、つくりもの感の強いものであると考えられる。部屋としての機能を削ぎ落としていけば、リアルな部屋とはかけ離れていき、フィクションに近づいていく。しかし、神楽めあが「見えない椅子」に座ったり、豪快に水を飲んだりするとき、やはりそこにある「現実」が透けて見えてくる。こうした休憩のシーンは、VTuberによっては隠す選択をする場合も多いが、神楽めあは開けっ広げである。ここでも「現実と虚構の揺さぶり」が行われているのである。

 

・まとめ
このように、神楽めあ3Dお披露目配信を通じて、以下4点の「現実と虚構の揺さぶり」があったことを確認した。①時間の意識、②演技の型、③キャラクターとしての心理、④配信する空間。そして、この4点が基本的には「自然体」で行われていることは、非常にレベルが高いということも指摘した。
神楽めあは、そのコミュニティの外側に居る人々にとっては単に「汚い」キャラクターでしかないかもしれない。しかし、演劇的なキーワードと「現実と虚構の揺さぶり」という概念を用いることで、表面的な印象論以上のものに接近することができた。以上の分析が、「没入感」を基本とするVTuberの見方を相対化するものであることを願うことにしたい。