*「ゴシップ」の思考メモ

*ゴシップに関する思考のメモ。具体例は示していないが、コレコレ・ポケカメン・PDRさん・滝沢ガレソ・鳴神裁、といった面々のコンテンツを思い浮かべながら、メモを作成した。見出し=要約は以下の通り。

 

①ゴシップは現実/虚構、公/私の狭間に現れる
②ゴシップは人間の価値観や感情を揺さぶる
③ゴシップは真理であり正義である場合もあるが、反転しうる
④ゴシップは証明も解決も難しい

 

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①ゴシップは現実/虚構、公/私の狭間に現れる
いわゆる「ゴシップ」は、完全なフィクションが共有されている状態では意味をなさない。たとえば、絵の中に描いてある人物に向かって罵詈雑言を放つ、など。この行動は「滑稽な」ものとして受け取られる可能性がある。つまり「ゴシップ」は、フィクションと現実の狭間、フィクションが破れているところ、失敗しているところ、フィクションを信じられない状態において、はじめて有効になる。
すなわち、どのゴシップも「本職」においては発生しにくい。グラビアアイドルもアナウンサーも芸人も、その職業における行動が問題視されることは少ない(もちろん、あり得る。グラビアアイドルの写真集が過激である場合など。しかし、フィクションの作者の方へ吸収される可能性が高い)。本職の「裏」で、いわゆる「私人」として行われた行為について、ゴシップは発生する。あるいは「私的領域」に隠そうとする「秘密」にも、ゴシップはつきものである。
ゴシップは、フィクションと現実の狭間、公的な領域と私的な領域の狭間で発生する。こうした境界がないとき、ゴシップはその存在意義を限りなく小さくする。
(*しかし、人間に「かくしごと」があるかぎり、ゴシップは消滅することはない。いわば人間が社会的に生きようとする限り、ゴシップやうわさ話から逃れることは難しい。それらから逃れるためには、引きこもりになり、可能な限りでの匿名性を確保するほかない。)
(**ゴシップは、ごく小さな出来事を宇宙的な規模まで引き伸ばす。もしくは、自分とは全く関係ないと思われていた出来事を、自分と関係のあるものとしてこちらへ強烈に引き寄せ、巻き込む。)

 

②ゴシップは人間の価値観や感情を揺さぶる
ゴシップは、様々な価値観に揺さぶりをかけるものである。もし、それが受け入れやすいものだったり、特に気に止めるものでもなければ、ゴシップとして成立しない。中でも「不倫」「未成年者との云々」といった、性に関する価値観は(芸能人などによっては)注目されやすい傾向があるのではないか。読者の価値観に揺さぶりをかけ、感情が高ぶらなければ、いかに珍しい情報でもゴシップとしての価値は低いだろう。

 

③ゴシップは真理であり正義である場合もあるが、反転しうる
ゴシップは、時に「真理」や「正義」とともに用いられる傾向がある。実際に、巧みに隠蔽された反-倫理的行為(多目的トイレで無理やり?行為におよぶ等)、企業不祥事などを明るみに出すには、ゴシップまがいの情報を「真実」に叩き上げる必要がある。声を上げられない当事者の声を汲み取ることは、「正義」の行為であるとして良いだろう。
しかし、「正義」の名を借りて「非-正義」(=「敵」)と見なされた対象を攻撃することも可能である。「敵」は提出された情報が明らかな嘘であっても、証拠を提出することを求められ、その労力は大きい。また、その労力に見合わず、「事実は人の心を変えられない」というように、結局「敵の言うことなど信用できない」と言われてしまえばそれまでである(「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」)。

 

④ゴシップは証明も解決も難しい
ゴシップが真実であることを客観的に証明することは難しい。そもそも、公共的な事件でないこともあるため、複数視点による相対化がしにくい。まさに「当事者が声を上げること」そのことによって、ゴシップの客観的な信頼性は低くなってしまう。
また、ゴシップの正しさを証明するはずの証拠の出どころは、情報元との信頼関係が優先され、明かされないことも多い。
このようにゴシップは、その外側に居る人々にとってはその正しさを証明できないことがほとんどであり、いわば「終わらない旅」である。ゴシップを楽しむ人々は、ゴシップの構造に内在している解決不可能性を楽しんでいる、といえる。
(*真の正義を達成するための用件として、「透明性」が考えられる。ゴシップはどれだけ「正義」の衣を着ようとも、その不透明性によって普遍的な正義に到達できない。ゴシップの主体は、情報網との信頼関係という「小さな正義」を優先し、より普遍的な「大きな正義」を蔑ろにしているという批判も可能だろう。)