★「『青色本』を掘り崩す」のメモ

(2020/04/06-07)

 

ライプニッツ原理、カント原理

 

◆統覚(永井均):諸感覚がひとつにまとめられること。
・「いたち」と「いらじ」(永井均):いろ+かたち、いろ+あじ
*諸感覚を分割して考えたさい、それらの感覚が統合した状態

 

◆私秘性
*私秘性の共存:相互に体験不可能な諸体験の共存(116)
*一般的な私秘性:一般に他人の痛みは感じられない(115-116)
*相互的な私秘性:「私は他人の痛みが感じられない」を共有している状態?(117)

 

独我論
*独我論的事実:「人間のうちの一つがなぜか私であり、すべてはじつはその私の体験としてしか存在しない、という事実」(117)
*他人の痛みそのものが、端的に言って存在しない
*独我論言語、独我論的世界観
「他人が独我論的世界観を持つことは独我論に反する」(136頁)
「どんな内容であれ、他者の側から同じことが言えるという共通の地平の成立一般を拒否しなければならない」(137頁)

 

◆「とって」性
「各人にとって各人が私であるという発想に相対化してしまう」(171)
*「とっては」論法(289)

 

・「人称」という文法装置(122・257)
①私が唯一の現実の私である
②他人も①を主張する権利がある
⇒①②により、『可能的に「現実の私である」という事態』が生じる。この可能化により、「人称」が生じる。
*「人称」「様相」「時制」と同様に「意味」などを考えることも可能。

 

・言語規約を変更することで解消可能な問題:観念論、不可能:独我論

 

・「私」の本質規定(149):「識別基準」⇒たくさんのほかの人間のなかから、「私」が選ばれるための基準。
*「私にだけあってそれが私を私たらしめている余剰」(言語における余りもの)⇒公共言語で名前を与えることはできない(153)

 

・複数の「私」が共存可能な世界(122)

 

・世界の持続基準、記憶の持続基準(149)

 

◆事象内容(的):カントの「レアール」や「レアリテート」の訳語。Ex.現実の赤と願望の赤は、事象内容(レアリテート)としては同一だが、後者は現実性(アクチュアリティ/ヴィルクリッヒカイト)を欠く。⇒(神の)存在論的証明
*「私と今はレアールな存在者ではないので、「何であるか」という本質規定は究極的にはできない」(199頁)

 

・「偶丸奇森」の思考実験(183-頁)

 

マクタガート
A系列、B系列

 

◆「私」の主体としての用法(250)
「そもそも「他」が存在しない」
「森羅万象という意味での「世界」が他からの識別(それの同定)を必要としない」
「私が痛いということはすなわち世界が痛いことであり、私が悲しいことは世界が悲しいこと」

 

・同定:「他の候補から識別してそれはこうだと特定すること」(284)
*「同定に基づかない」:そもそも他の候補が存在しないため、同定すらないということ。(284)
同定に基づかない自己知(258)
同定に基づかない自己知の表出説(259)

 

◆言語
「語られたことと(それを聞いて)理解されたことの同一性を最も本質的な理念的前提とする制度」(220)
「原初の道徳である」「原初の道徳的行為」(291)「最も根源的な悪事(292)」
*言語には「対比項のある共通地平を超えた伝達の力」、「形而上学的に対比項を超越する力」が備わっている。(303)

配信者と倫理①:「浮気」で考える

・よくある例:ある女性VTuber(配信者でもよい)が配信中にミュートするのを忘れてしまい、彼女の同居人である彼氏の愛の言葉が放送にのってしまった。そのことによりネットは炎上し、彼女は数日間の配信自粛と、上記の件に関する謝罪を余儀なくされた。

 

・ネット民の意見を想像してみよう。
熱狂的なファンは彼女に「浮気」された、と感じるかもしれない。こちらは毎月何万円もスパチャで貢いでいるのに……どうしてそんなことをするんだ!怒り心頭である。
そもそも、彼女は「浮気」と思ってすらいない可能性が高い。しかし結果としてファンの主観上で「浮気」が成立してしまっている。厄介な状況である。
この混乱に乗じて、ネットを燃やしたい人たちはあることないこと書きまくる。そして炎上は大きくなってしまった。
自粛からの謝罪のあと、彼女は思った。「私は何も悪いことなんてしてないのに……どうして謝らないといけないの」。

 

・彼女は「浮気」の意図があっただろうか。
そもそも彼女の認識として、「ファンはファン」であり「恋人」ではない。分類されるカテゴリーが最初から異なっているのであって、ファンが幾ら求めたとしても恋人にはなれない。そのため今回も、ファンが一方的に「浮気」と認定してきた、という認識でいるようだ。
余談だが、「恋人」とは人間関係の中でもかなり特殊なカテゴリーであり、ある程度の質感を伴った体験がなければ認定できないものだろう。「ファン」は文字やお金のうえでしかやり取りしない存在であり、実際に通話などしない限り「恋人」のカテゴリーになるのはほぼ不可能である。不可能であるからこそ、「恋人同士である」という幻想を売ることができる。
彼女がいままでどのような活動をしてきたかにもよるが、この「恋人同士」幻想をぶち壊されたことに、ファンは怒っているのかもしれない。そのため問題は「彼女が、彼女のファンと恋人である、という幻想を育んでいたことに自覚的であったか」という形にできる。しかし答えはノーであろう。彼女は自分の活動が与える影響と副作用について無自覚であった。

 

・彼女の行為は、「浮気はいけない」=「恋人という幻想を壊してはいけない」という道徳に反した行為だったかもしれない(短期的な反道徳的行為)。
しかし長期的に見たときに、この炎上を期に、ファンとの関係や配信内容が改善したとするならば、変な言い方だが「あのとき浮気して良かった」にもなりうる。たとえば、彼氏の存在を完全に認め、彼氏とともにカップルチャンネルとしてやり直すとする。これは大きな賭けであるが、コンセプトとしては面白いのではないだろうか。
反道徳的行為は、既存の価値観をぶち壊し、新しい賭けに出るきっかけにもなる(場合によるが)。配信者がすべきことは機転を利かせピンチをチャンスに変えること。ファンがすべきことは、いたずらに怒りをぶつけるのではなく、配信者の新しい選択を受け入れ、賭けにのってみることではなかろうか。

 

・今回は面倒なので書かなかったが、一番悪いのは炎上を煽りまくる人間たちである。彼らの意図や倫理観については、また別途考えていく必要があるだろう。

**「全知」の欲望といくつかのアイデアについて②

・前回のメモでは、職業や社会的地位によって界隈が分化していることに、あまり自覚的ではなかった。たとえばキャバクラ界隈。キャバクラ嬢が基本の構成員になるのだが、その人に会いに行っている男とか、一発狙いのアホとか、得体の知れない富豪ツイッタラーなどが界隈に含まれている。性別を逆転させれば、ホスト界隈になる。彼らはTwitterだけでなく、インスタグラムが主戦場であったりする。または出会い系アプリ。
こうした界隈ひとつひとつに対しては、きちんと「追う」必要性が希薄なように思える。もちろん、彼ら彼女らのパーソナリティに触れ、ツイートをひとつひとつ追いたくなる、とかなら別ではあるが。私のような単に知識に飢えた人間からすれば、一般的に応用できる知識が少ないようにも思える。効率の悪い知識を追いまくってもしょうがない、と考えてしまう。
したがって、こうした職業や社会的地位によって分化された界隈に関しては、まったく知識がないのは論外にしても、常時監視して管理していく必要はないと考える。

 

・また、厄介な界隈である政治や宗教、スピリチュアル、アンチ垢などについて。
アンチ垢については、アンチスレを見る必要があった経験から、いくつかの経験則を見出だしているので、近々公開したい。アンチ垢が有用なのは、その執拗なまでの情報量である。もちろん人によっては煽りたいだけのアホも多いため、すぐにデマを流したりもするが、情報量としては潤沢である。こちらでフィルターする方法論を編み出しておけば、それほど怖くはない。絡む必要もない。
政治垢が厄介なのは、大体が一元論的に考えているので、こちらに耐性がないと没入してしまう恐れがあることだ。たとえば、すべての問題の元凶が自民党にあると思っている人は、何か騒動があると自民党が**だからこうなった、というようなガバガバ論理を断言口調で言い続ける。これ、ふだんは一目見て退散すればよろしいのだが、巡回となると頭がおかしくなってくる。同様のことがスピリチュアルや宗教にも言える。これらの界隈に関してはすでに類書があるため、それを参考にしても良いだろう。

 

・前回のメモの結論に、しれっと分類が含まれていたが、上記の例のように分類の仕方もいくつかある(多くはないだろう)。分類の仕方によって作られる世界が変わってしまうことにも注意しておくべきだろう。
そして「分類しきれないもの」についても考えねばならない。つまり、マージナルな領域に位置しているために、分類の枠組みからはこぼれてしまう情報である。
探し方としては、単純に「しらみつぶし」になってしまう。たとえば、あるアカウントの「いいね」欄は情報の宝庫である。また、ダメ元で公開リストをみるのもひとつの手である。また、重要なキーワードがすでに絞れているのであれば、検索機能を使って重要なアカウントを発見することも可能である。しかし、この方法は何にしても時間がかかる。

 

・結局は、分類の罠に注意しながら、前回の結論のような人海戦術を使いながらも、その他の方法を模索していくほかない。
上記の悩み自体もひとつの界隈として分類できる可能性は高い。「情報収集」界隈とでも呼べるような、情報収集の情報収集をしている人たちを探してみたい。次回はその界隈を確定するための具体的なルートをメモしていきたいと思う。

「全知」の欲望といくつかのアイデアについて①


・現在、すこし時間ができたため本を読んだりしてのんびり過ごしている。まとまった時間ができるたびに思うことが、「もっと効率的に情報収集をしたい!」というもの。色々な分野に関する最新の知見やニュースを、手軽に収集できるツールやサイトがあったらな、と夢想する。これを僕は勝手に「全知の欲望」と呼んでいる。この世界で起きていることを、すべて、逐一、知りたくなってくる(特に深夜)。しかし、いつも軽い挫折にあってやめてしまう。挫折の内容を書き留め忘れているので、今回はきっちり記録して次回の挫折に備えたいと思う。

 

・そもそも完全な全知は不可能である。知識をどう定義するかにもよるが、いま地球上で起こっていることすべてを、すばやく処理できるコンピューターなどそもそも存在しないにちがいない。そしてコンピューターが存在したとしても、おそらく無数のデータの羅列となるそれをすべて解釈する行為は不可能に終わるだろう。
「これはまあ大体全知でしょう」と納得できるレベルに範囲を縮小しなければならない。私が知りたい情報は、北極にいるクマAが本日何を食べたか、という具体的な情報ではない。むしろ、北極にはクマを研究している人々がおり、彼らが観測したクマの行動に関する論文や報告が読んでみたいのである。基本的には、具体的な情報よりも、具体例をまとめて抽象化した情報が欲しい。

 

・例外として、ある特定のコンテンツに関しては具体的な情報が欲しい場合もある。VTuberやアイドルなど、総称して「タレント」と呼べるコンテンツは、具体的な情報が価値をもつ場合も多い。芸能ニュース(「今日なにを食べたか」などを含む)は、その外側にいる人にとっては全く無価値かつノイズだが、内側にいる人にとっては人生をかけて収集すべき情報にもなりえる。この欲望が犯罪的なまでに高まると、ストーカーということになる。

 

・上では比較的新しい情報について書いたが、過去の情報についても知りたいことは多い。つまり、歴史や歴史的事実に関する情報。これは検索可能であればある程度解決される(それでも情報は膨大だし、程度にもよるが)。問題は検索に引っ掛からないものである。
検索に引っ掛からないものは、記録されているとすれば、当然、紙(書籍・雑誌・etc)であり、記録されていなければ人の記憶を頼るしかない(取材・インタビュー等)。検索・記録・記憶がないものは、不確実ではあるが、推測するしかない。ここまででようやく「歴史」と呼べるものに到達する。

 

・かなり例外的なものとして、セキュリティに関する犯罪により情報を手にすることも全知に含まれる。ストーカーもその一端ではある。そういう意味でも全知は不可能である。

 

・上記のような情報収集を総合的にやっているのが、新聞社やテレビ局だろう。そういった組織について学ぶことで、効率的かつ漏れのない情報収集の参考にできる可能性は高い。
それでも基本的な構造は、誰にでも思い付く方法だろう。①情報の内容を分類する:政治部・経済部・スポーツ部……etc。②分類したものをさらに細分化する:スポーツ部⇒野球・サッカー・陸上……etc。③分類しきった箇所に人員を配置する。
私が作っているTwitterのリストも大体上記のものと同様である。しかし細分化し過ぎるとリスト全体が見えにくくなるため、大雑把な分類にとどまっている。

 

・挫折の原因は色々とあるが、情報の位置が一定でないためサイトやツールを行き来して情報収集をしなければならない、という原因が個人的には大きい。Twitterで十分情報が集まるものはよいが、別サイトにうつって集める場合、かなり面倒に感じる。この認知的コストを軽減するには、何らかのサイトやアプリなどで一元管理できるのが最もよい。
ブログにそういったサイトをまとめ、巡回していたこともあったが、編集や管理のやり方が煩わしく、やめてしまっていた。

 

・一番良いのは人海戦術か、と思ってしまう。これに関しては試していないが、日頃から情報をまめにチェックできるほどコツコツした人が居ないのも確かだ。そしてできるにしてもある程度の時間が必要であるため、一緒にやろうと誘いにくい。
情報収集をひとつのプロジェクトとして運営していく気概がないと、人海戦術はすぐに破綻してしまうだろう。個人の能力や裁量に頼りすぎて負担がかかり、マネジメントが機能しなくなる可能性が高い。

 

・ここまでの思考メモからすると、新聞社やテレビ局のように情報を分類し、人員を配置して、協力しながら情報収集するのがひとつの答えであるように思える。

 

・情報収集に協力してくれる人、情報を一元管理できる方法を知っている人、別アイデアをお持ちの人、ご一報ください。

★アンタッチャブル・柴田の動物漫談について

◆2004/10/20~2005/09/03:『リチャードホール』(フジテレビ)
↑「パンダP」シリーズ。上記以外にも複数の番組で披露している。

 

・誘い笑いと、強烈なリアクション
*動きが激しい:机をバンバンたたく、のけぞる、椅子から滑り落ちる、笑いすぎてどこか痛くなる……etc

 

・激しいテンションと、話を落ち着けるテンションとの緩急が大きい。話全体のリズム感がよい。
Ex.オチの前に静かになる部分をつくる:「どうすると思う?」疑問形で注目を集めてから、オチを言う。

 

・基本的には、オチに対して柴田が鋭いツッコミを入れることで成り立っている。
Ex.ウマの視界に対して「もうちょっと頑張れよ!」アリジゴクの罠に対して「作戦変えろ!」

 

・動物に対して持っているイメージや、そういう性質があったら論理的にこうだろうという予想を覆すエピソードを出す。
*フリ:常識的なロジック⇒オチ:ロジックの予想を裏切るもの。
Ex.アリジゴクが蟻をとる巣をつくるのは有名⇒さぞたくさん捕まえているのだろう(聞き手の予想)⇒実は全然捕まっていない。むしろ蟻のほうが頭がいいじゃん!

 

・「なんでこうならないんだよ!」「もっとこっちのほうが良かっただろ!」という突っ込みが(入るようなエピソードが)オチに来るパターンが多い気がする。
*悲しさやわびしさが最後に入るパターンもある。
Ex.パンダは優れていると判断した子供しか育てないが、その習性のせいもあり絶滅危惧種になっている。

 

・もちろん雑学のなかにはそれほど面白くないものもある(本人談)。話としておもしろいものをえらぶ選球眼が重要。また、他のひとが絶妙に知らない話をえらぶのが非常にうまい。

「批評はなんのためにあるか」という問いに対する答えについて


*2020/03/22時点での思考のまとめ。メモ書きに近く、包括的でない
*結論は以下の通り↓
「▼暫定的な結論:批評は、新しい価値観を発見したり、既存の価値観を操作することを通じて、個人の価値観に訴えかけるためにある。」

 

---

 

▼「批評はなんのためにあるか?」

 

▼作品のここはどういう意味?という問いに対して、説明を与える機能
Ex.どうしてここで女はバナナを食べるのか?
⇒文学的説明:去勢の比喩である、あるいは結末の伏線である等(★修辞法・物語構造からの回答)
⇒心理学的説明:女性が急にバナナを食べたくなったから
歴史学的説明?:このシーンは過去の作品のパロディである(★パロディは修辞の一種であるため、これも文学的ではある)
⇒文化・人類学的説明:女性がバナナを食べるのは、**族の特徴であり、彼女がその部族出身であることを暗示している
……etc
★すべての説明が盛り込まれた物語は価値がないだろうか?
⇒ex.ユダヤ教聖典など。欄外に解釈が細かく書き入れられている。それはどうして?……ユダヤ教の場合は、解釈を増やすことを良しとする教義があるため。

 

▼作品に対する「答え」は、ひとつに定まらない
(⇔国語の問題。曖昧さがあってはならない。答えが一意に定まらなければ、点数を付けることなどできない。)
⇒「曖昧さ」の量や質が作品の評価の尺度?それも絶対の基準ではない。
★結局は、美学、コード、レートの問題
(コード:そもそも理解できなければ、評価することさえできない。たとえば極私的なことに関するクイズなど。その人に関する情報を持っていても正確に回答するのは難しい⇒二次創作の意味。情報から規則を生み出し、ある状況に当てはめる。)
⇒ものの価値を決定するレートは常に揺らいでいる。
(ものの価値を揺るがせにしないために、人は規則や美学や倫理、コードでレートを正確に決めようとつとめる。**本位制=絶対的な価値。)(それは次の瞬間世界が存在しないことを想像しない生物の特性と似ている……要検証)

 

▼レートは何を基準に設定されるのか
⇒最初のレートはある程度絶対的だが、時間が経ち、互いに関係するレートが複数あらわれるごとに、相対的になる。
レートを決める有力な要素はある。実際のレートで言えば、トランプ大統領の発言や、コロナウイルスの感染者数など。また、レートにも重要なものとそうでないもの、動きやすいものと動きにくいものがある。価値に対して倍の掛け金を設定することもできる(レバレッジ)。
しかし最終的に価値を動かすのは、実際に人々がそれを買うか売るかの判断である。あらゆる作品は非売品でない限り、商品である。

 

▼批評は「まちがった商品を買っている人に正しい商品を教える」活動だろうか。
⇒買った人が満足すればそれでよいのでは?
それでは、買い手のより満足するものをつくるための活動だろうか?
(あるいは、進化論的な意味。文学を「カイゼン」していく活動?「文学と進化論」という分野もあり得るだろう。人間営為の進化史。ここからこぼれ落ちるのは、退化と絶滅の文学史。)

 

▼作者に影響を与える、という作用もあるだろう。作者自身が、作品の意味を改めて知る、あるいは批評に意義を唱える、などという仕方で。

 

▼(比喩)古いアイテムの値段はどのようにして決まるか。主に次のコードによって構成されたレートによると思われる。
①古い/新しい、②きれい/汚い、③少ない/多い、④人気がある/ない……etc
このように、そもそもコードがなければレートをつくれない。そしてそれぞれのコードは信頼のおけるものでなければならない。ここで重要になるのが、主観的なコードと客観的コード、という考え方だろう。
主観的なコードに価値はない、とされる。たとえば上記の古いアイテムの査定に、店員の思い入れの品である(から高額である)、というコードは通用しない。しかし、実際に商品を購入する人物は、主観的なコードで買い物をする。そして勝手に満足する。
購買者の主観的なコードと、査定者の客観的なコードは必ずしも一致しない。
(「贋作」のブランドバックを提げて出かける人たち。)

 

▼それでは、批評とは購買者の主観的なコードを研究するものなのだろうか?
(これは「ドリルを売るなら穴を売れ」的な、マーケティング・消費者行動・行動経済学などの領域になるのではないか。)

 

▼たとえば、読み手が「予測」するとき、それは心理学的な領域に入っている。
(そして、読み手がどれだけ作品に入れ込んでお金を落とすかは、かなり宗教学・社会学・両者の心理学的な問題だろう。)
要するに、主観的なコードは心理学の言葉や、さらに進んで自然化(科学の言葉に還元)できるのだろうか。できるとするなら、批評に主観的なコードへ立ち入るすべはない。

 

▼客観的なコードは、主観的なコードへの働きかけとしての機能があるだろう。
たとえば、今までボーボボを単に下品な漫画だと思っていたが(道徳のコード)、笑いの基本を学ぶとそれにかなった素晴らしい作品だとわかった(笑いのコードの導入)、など。
批評は客観的コードについての操作であるなら、主観的なコードに働きかけるという意味がある。

 

▼批評が「社会のためになるか」という問題は非常に答えにくい。なぜなら、批評が打ち出す客観的コードのうちには、社会や宗教が打ち出す倫理観(客観的コード)とぶつかる場合や相反する場合も多いからだ。
たとえば、「緊急時に人の役に立つ」ことが求められるコードにおいて、批評の操作するコードは圧倒的に不利だろう。(その背後には「社会を持続させていくか否か」というコードがあるように思える。社会を持続させるには、進化を続けねばならない。)しかし批評の作用によって、「イノベーションを発生させる」というコードを導入するなら、批評の操作するコードにも意味がみえてくるのではないか。
つまり批評は、作品に関する客観的コードだけでなくて、社会や宗教が打ち出す客観的コードに対しても操作することができ、それらを通じて主観的なコードに働きかける。

 

▼ただし「社会や宗教に役立つ文芸批評」といっても、単純に社会や宗教の客観的コードにのっとった批評では意味がない。そこに新しいものはない。(⇒これは、一種の批評の批評になっている。)
ここで進歩主義的な主張に陥ってみたくなる。つまり既存の社会を壊し、新しくより良い社会をつくるために、この作品はあると言う主張にもつながる。(こうした逡巡をするとき、私は批評を批評していることがわかる。)あるいは悪しき価値観を滅ぼし、より新しい価値観をば!という主張。
また、個人的な主義主張を押し付けるような形で、客観的コードをねじ曲げようとする批評はどうなのか、とも思う。
しかし上記の意見もまた、批評の批評におけるコードという形で定式化できるかもしれない。

 

▼批評の批評、というメタ的な思考もありにすると(当然アリなのだろうが)、レートに対するレート……、という複雑な図式になっていく。
(批評はものごとを複雑にするためにあるのだろうか。しかし科学的説明において、単純に見えていることが、実は複雑な構造であることはよくあることだ。複雑な構造は、何かに応用されることも多い。批評は何に応用することができるのだろうか。)
ここまで複雑にしてみても、客観的コードの操作によって主観的コードに働きかける、という部分はそれほど変わらないように思える。

 

▼暫定的な結論:批評は、新しい価値観を発見したり、既存の価値観を操作することを通じて、個人の価値観に訴えかけるためにある。

★『ミッドサマー』感想メモ

・あらすじ
あらすじ自体は予想しやすいもので、それほど真新しいものではないと感じた。僕は「ひぐらし」じゃんとか思っていたけど(要検証)、まあ各々思い付く作品はあるのではなかろうか。無かった人はラッキー。十全に楽しめた人たち。
スウェーデンに渡る前までは、一体何が起こるんだ?といった感じがあったが、実際に現地に着き、団体の敷地に足を踏み入れたシーンで誰かがこぼした「カルト」の言葉を聞いたならば、まあ大体起こることは予想がつくかもしれん。
だから私にとってはミステリアスというよりもずっと明け透けな映画で(大勢にとってはミステリアスかもしれないが)、メタ的な表現やディティール、テーマ性を追求した映画だった。つまりあらすじ自体はあんまり力が入っていない映画、だと思う。

 

・テーマが強めで華々しいB級映画
そもそもこの映画は、色々文脈を知っていれば面白いシーンが多そう、という意味でB級映画っぽい。つまり文脈を知らなければ、明瞭でなくわかりにくい点が多い。
いきなり主人公以外の家族全員が死ぬのも、表現自体は迫真のものでカッコ良く、良いものだと思うが(死に方のリアリズムは置いておく。まあたぶん映画とかの見すぎでどうしてもああいう死に方をしたかったのだろう)、理由が特になく死ぬ感じはとってもB級映画っぽいご都合主義だな~、と思う。双極性障害へのリスペクトが感じられない(?)。(いや、もしかしたら今回の事件自体が双極性障害界隈では有名な事件のオマージュです、とかになったら話は別だ。調べてみる必要はあるだろう。ほら、これもかなりマニアックな文脈が必要。)
登場人物が「あ~こいつら確実に死ぬな……」とわかる展開も、すごいB級感があった。主人公の恋人をどうするんだろう、というのは最後まで気になったが、その他はありがちな理由で殺されていく。

 

むしろいくつかのテーマ性のほうが、この映画を見るうえで重要だろう。まずは「浮気(セックス)」。物語の冒頭付近からやたらセックスがしたい若者という描写が出てきて、露骨だな~と思ったが、まあ大事なテーマだからなのだろう。ある未開の地・ミステリアスな人々に対して性的なイメージを抱いたり、実際に支配して屈服させ性行為に及ぶという欲望。イギリスのカップルは、普通に脱走に失敗したという割りとダサ目の死に方をしたので除外すると、セックス男はオシッコを怒られ女に誘われ死に、黒人は単純に「見てはいけないものを見てしまい」死に、主人公の恋人は「セックスしないと出られない部屋に閉じ込められ、セックスをして部屋から出たけど恋人に裏切られ」死んだ。支配という欲望に対して否定的な目線を感じる。
けっこう面白かったのは、主人公の恋人が多様性を重んじる発言をし性行為に及んだために死ぬ、ということ。結局、多様性を重んじる言動も、未開の女とセックスをするための言い訳に過ぎないんだろ?というようなメッセージを感じる。実際、彼は同調圧力と性欲に負け、呪いのようにものすごいデッカイモザイクをかけられ、老女に励まされセックスをして死ぬ。彼は多様性の尊重にこだわっていたようだが、「あの土地に足を踏み入れ帰って来られる」と思った時点で、支配の欲望へ片足を突っ込んでいる。絶対にわかりあえないことをわかりあうのが、多様性の尊重なのではないだろうか。そんなメッセージ・テーマ性。

 

あと黒人の死に方も「博士後期過程のめちゃめちゃ世知辛い事情」という感じでかわいそうなんだよな。むしろこっちのテーマとしては「きちんと研究対象との関係構築をしましょう」みたいな教訓映画っぽくもあるし、ぜひ人類学の博士後期過程の人たちに感想をききたいシーンではある。

 

「浮気」の話に戻すと、主人公の女が自分の浮気については割りと棚において、浮気した恋人の死に「うひひ」と笑っているのは、皮肉みたいなものなのだろうか。ヤンデレ女の皆さん、自分の性欲を棚において恋人の浮気を責めてませんか?みたいなメッセージ(?)。
どうでもいいけど、主人公が女王に選ばれ持ち上げられるシーン、『魔法陣グルグル』の序盤で、闇魔法結社に着いたあと担ぎ上げられるククリと重ね合わせてしまった。そういえばダンスも共通のテーマだし、主人公の都合通りにことが進むのもアラハビカ編(浮気がテーマのひとつ)の流れだし、ミッドサマー=グルグル説……あるな(ない)。

 

今回の映画でひとり勝ちしてるのは、主人公たちをスウェーデンに呼んだ男だろう。彼はおそらくこれから学位を手にいれ、女も手にいれ、団体のなかでの地位も手にいれるに違いない。私が妄想する胸熱展開だと、実は彼が両親を儀式で殺されたことに恨みを抱いており、団体の崩壊を画策している、とかだったら面白いと思う。ミッドサマー2だな~これは~。(どうでもいいけど、ミッドサマー2って題名めちゃめちゃダサいな。B級映画としては100点だけど。)

 

表現の華々しさは実際に映画の画面をいくつか貼ればわかるとは思う。往年の名画の美しさではなくて、「園子音の暴力シーンってやけに美しいときない?」みたいなB級映画っぽい美しさなので、注意。作り物感満載の屍体と花々の調和。ラリったときの視界の表現。めちゃめちゃ燃える建物。

 

・まとめ
適当に思うことをメモしたかったので、だいぶまとまりのない文章になってしまった。別に2回みることもないと思うけど、何か必要になったらみようかな~、という感じ。わりと楽しく、好きなタイプの映画でした。以上。約2200字。